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ボクシングをもうちょっと便利に使うための10のTips

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刃牙道が198話をもって完結した。バキシリーズじたいは続いていくので、その意味では完結でもないが、とりあえずひとつの段階ではあるので、このあいだに起こったことの分析をまとめて、さらに少しすすめておきたいとおもう。  おもえば刃牙道は宮本武蔵の誕生からはじまり、その昇天で幕となったわけだが、こういうシリーズはかつてなかった。第1部の『グラップラー刃牙』では、まず地下闘技場でのたたかいの日々が描かれ、なぜバキが父を倒さねばならないのか、その理由を描くために、13歳の幼年時代に突入、それをふまえて、ちょうど刃牙道と同じくらいの分量で最大トーナメントが描かれた。第2部『バキ』では、武蔵的ななんでもありの闘法の、作中では元祖ともいえる死刑囚たちが来日し、最大トーナメント出身の格闘家たちを相対化、非常に起伏に富んだ、見事なバトルがいくつも生まれることになった。そのたたかいでダメージを負ったバキは、烈のすすめで中国で開催される大擂台祭に出場、続けてアライジュニアとのたたかいも描かれた。これらの展開は、バキじしんに、まだ勇次郎に対するだけの準備が足りなかったということが根本的にあったろう。そうして第3部『範馬刃牙』に突入、まずリアルシャドーで考えうる最強の生き物として巨大カマキリとたたかい、当時は2番手格の強さだったオリバへの挑戦含め、バキは渡米し、ゲバルのような魅力的なキャラもあらわれた。しかしまだ足りない。そこに、天災のようにピクルがあらわれ、ファイターたちを破壊していく。が、それはバキには幸運なことであり、彼じしん、ピクルとなら勇次郎のいるところまでたどりつけると確信することにもなった。もうひとつ足りなかった精神的な要素、もっといえば「親子喧嘩を開始するための要素」は、気を利かせた花山が柴千春を派遣することで取り込まれ、これ以上ないほど万全な状態でバキは勇次郎と対戦することになったのだった(順番あってるかな)。つまり、どのばあいでも、展開は多岐にわたっているのであり、凡庸ないいかたをすれば「ボス」がひとりで終わった刃牙道は、特殊なのである。これをどうとらえればよいか。ひとつには、親子喧嘩は終わったのだ、ということがある。それまでのバキシリーズは、いってみればすべてバキの修業の日々を描いてきた。だから、たとえば『グラップラー刃牙』と『バキ』のあいだには、バキの修業という面でいえば、デジタルな差異があるわけではなかった。もしそこに差があるとすれば、修業の視点が変化しているというくらいのことであり、基本的には便宜的なものだったと考えられる。つまり、『グラップラー刃牙』では、地下闘技場を足場に、世界中の格闘家たちとたたかうことでバキは強くなっていったが、『バキ』はそれをまるまる相対化するものだった。特定の格闘技者ではない死刑囚たちがまさにその象徴であり、刹那の勝敗に一喜一憂するありようは中国の伝統的な大会に視点を転じ、次にはスポーツ的な格闘技であるボクシングの「達人」が登場することで、次々と「それ以前」までのありようが相対化されていったのである。『範馬刃牙』は、それらの、ある意味では目的のない日々が終わり、ついに勇次郎に向けて歩み始めたシリーズといっていいかもしれない。オリバへの挑戦は、たんに強くなるためではなく、明らかに勇次郎をみすえたうえでバキはしていたのだし、ピクル戦にかんするモチベーションもそうだろう。そういう日々は終わった。その意味では、その後のバキは後日談にすぎないのであり、これまでと異なったものになるのは自然なことなのである。もうひとつは、宮本武蔵という存在の巨大さである。これまでの視点を相対化していくのがそれまでのバキシリーズだという視点でいえば、武蔵ももちろんそうだった。では、その武蔵を相対化するものを「刃牙道」に含んではいけないのだろうか。おそらくそこが、武蔵を「最強の元祖」とした作品にとってのポイントである。少なくとも、「最強」を求める本シリーズにおいては、その概念をつくりだした宮本武蔵を相対化することは不可能なのである。バキシリーズは、最強とはなにか、誰か、どの格闘技か、という無邪気な問いを、ほとんどの場合モデルがあり、しかも読者がひとめでそれが誰かわかるように描いて、これをぶつけ、現実には行われなかったバトルを漫画内で実現することで、問いにこたえるというより、こたえを延期していくしかたで、思考実験的に検証してきた。しかし、この問いは、そもそも「最強」という概念がなければ成り立たないし、誰もそのこたえを探ろうと欲望しはしない。「貨幣」という概念がなければ、誰も「お金持ち」になることはできないし、どれだけマルクスが天才でも、労働者が搾取されるシステムを見出すことはなかったのである。武蔵が「最強」の概念をつくった、ということにかんしては、僕は作中や煽り文等の情報にしたがっているだけで、深い知識があるわけではないが、単独の武をみがいて名をあげてきた人物として、やはし最古は武蔵なのかな、とは感じる。ともあれ、五輪書などを読むと、複数の戦闘も単独の戦闘もやることは同じ、相似形である、というような思想はすぐに見て取れる。戦術や戦闘の技術のようなことはそれ以前にもあったろうが、それが相似形であり、単独の身体でも実現可能である、というふうに言い出したのは、やはり武蔵が最初なのかもしれない(当ブログは作品外の情報にあまり重点をおかないので、どちらでもいいことだが)。そうしてみると、「最強」を探究するバキシリーズは、武蔵がいなければ存在することができなかった。こうしたことが、武蔵が相対化できないということ、過去から実物がやってきたということ、すなわち、ある意味では作品外の人物であるということ、これらの特殊な現象の鍵となっているのである。  まず最初にグラップラーたちのあくびがあった。なぜか、特に打ち合わせしたわけでも、そういう症状があるということを話し合ったわけでもないのに、みんながあくびをかみ殺していたのである。これにかんしては親子喧嘩が終わったことが関係しているだろう。それ以前までは、バキ世界のファイト事情はもっと混沌としていた。それは、格闘漫画ではつねに最大のテーマである「実戦」ということじたいが、つねに流動的だからである。なにをもって実戦とするか、限りなく実戦に近いとされる総合格闘技のようなものも、むろん「実戦」ではなく、ルールがある。「実戦」が行われる場所も、決まっているわけではない。寝起きかもしれないし、徹夜明けかもしれないし、あるいはそれこそ試合会場かもし
れない。そのように、「実戦」とは状況が定義できないものである。だからこそ、「実戦」には輪郭がない。そしてそのことが、おのおのの抱える格闘技術を使用するにあたって、その結果を流動的にしてきた。AとBがたたかい、Aが勝ったから、Aのほうが強い、とは、バキ世界ではいえなかったわけだが、それは「実戦」を意識してきたからこそなのである。勝敗は、そのときの勝負の行方を説明する形容でしかない。ところが、こうした最強戦線のなかで、唯一不等号で居場所を特定できたのが、範馬勇次郎だった。彼がいる世界では、彼以外の人物はすべて「彼より弱いもの」として回収されてしまう。もし「最強」を意識するファイターが、流動的な最強戦線に飽き足らず、真に無敵であることを求めようとしたら、それは勇次郎を倒せば達成される。こんなわけで、勇次郎が最強者として頂点に立っている世界は秩序を保っていた。だが、それは同時に多くのファイターの意欲をくじくことにもなった。勇次郎の強さは「既知」によっている。幼いバキが必殺のカウンターである真上からの胴回し回転蹴りをくりだせば、勇次郎は同じ技でカウンターをとる。最大トーナメントでおそいかかる、トーナメントの敗北者たちは、それぞれの得意なジャンルで圧倒された。中国拳法の最強の男である郭が到達した最終奥義・消力を、勇次郎は、もともともっていたのか真似たのか、あっさりやってみせた。このように、勇次郎の強さは、「お前のできることはおれにもできる」、転じて「お前にできておれにできないことはない」というしかたで示されてきたのである。これが、ファイターのアイデンティティ、じぶんが唯一無二の存在であるというプライドを砕いていく。たんに日常的な護身として武術を身につけるということであれば問題はない。しかし、より強くあろうと日々研鑽するものは必ず勇次郎にぶつかるのであり、そこで勇次郎はつねに、相手の無価値を宣告してきたのである。だが、それでも、独歩などメインの人物たちは、最強たろうと努力を続けてきた。このとき、勇次郎は、ひょっとしたら永遠にたどりつけないかもしれないけど、とりあえずこちらのほうに向けて進んでいけばいいんだな、というようなしかたで認識される天蓋のようなものになる。真上に太陽があって、届かないとわかっているけど、それに向かって毎日ジャンプして、ちょっとずつ脚のちからがついていく、みたいなことだ。親子喧嘩はこれを失わせた。現実問題としては、依然として勇次郎は、ほとんど全員のファイターにとって太陽のままである。しかし絶対者ではなくなった。もうひとつ、その横に、バキが立つことになったのだ。絶対ではなくなったということは、到達可能性が出てきたということでもある。そして、おそらくこのことが、彼らをある意味退屈させてきた。彼らは、あくびをするとともに、なにかを予感しているかのように、そろって厳しいトレーニングをするようになっていた。これは、たぶんその到達可能性が出てきたことによってだろう。ところが、勇次郎はもはや手の届かぬ存在ではなくなっていた。読み終わるのがもったいないと感じられるほどおもしろい小説の終わりが見えてきてしまったときのような感じだろうか。こうしたことが、彼らにあくびをさせたのだと考えられたのである。  と同時に、これはやってくる武蔵を予感したものでもあったろう。宮本武蔵はスカイツリーの地下366メートルで生まれた。というのは、武蔵野にちなんで、スカイツリーの高さが634メートルであり、その頂上から1000メートル下が、武蔵誕生の地だったからである。これは少し奇妙だった。なぜ、頂上から数えるのか。なぜ、地下634メートルとか、あるいはきりよく地下1000メートルとかでなく、結果としては地下366メートルという半端な数字を出す「頂上から1000メートル」なのか。おもえばここにすべてがあらわれていた。それ以前から、バキ世界では、バキたちが活動する、真の強者がうごめく裏世界と、テレビにうつる表世界の接近が描かれてきた。ひとびとは、烈のボクシング参戦や、ピクルの登場、勇次郎への落雷などを通じて、なにか、世界には信じられないような超人がいる、というようなことを学んできた。もっとも象徴的だったのは、通り魔を打ち砕くにあたって「存在してはいけない技」を使用した独歩が、監視カメラという、表社会の秩序を守る機関の「目」によって捕捉されたことである。そして、最後に世界は親子喧嘩を全世界生中継で目撃した。親子喧嘩以上の闘争は現状ありえない。そうして、ついに世界は表裏合体した。刃牙道に入ってから警察や一般人がずいぶん登場するようになったが、それはこうした事情があったからなのである。この理由としては、親子喧嘩が世界のパワーバランスにかかわることだからだ、というふうに考えられた。勇次郎はアメリカと友好条約を結んでおり、大国の経済状況が小国にも無関係ではないように、親子喧嘩の行方は、世界に暮らしているすべての人物にとって無関係ではないのである。スカイツリーの地上と地下が表象するのは、この表と裏の世界である。合体した両者は、地下366メートルから数えて全長1キロの枠のなかにおさまる。その最深部、表裏合体した漫画世界が外部と接触する原点のようなところから生まれたのが、宮本武蔵なのであった。   非常に長くなりそうなので、記事をわけようとおもいます。②へ続きます。(更新はまたべつのときに)      刃牙道 1 (少年チャンピオン・コミックス)   Amazon   刃牙道(22): 少年チャンピオン・コミックス 463円 Amazon       

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