ボクシング特集

ボクシング

ボクシングを捨てよ、街へ出よう

前回の投稿でたくさんの方からご連絡いただきました。

 

 

 

 

本当にありがとうございます。

 

 

 

 

名古屋の社長はじめ、心配して家に呼んでくれた友人、遊びに連れて行ってくれた先輩、心配して超忙しいのに朝一から来てくれたお客様、、、

 

その他にも、パートさん、姪っ子達、本当にたくさんの方々のおかげで救われました。

 

 

 

 

一言に『パニック障害』と言っても、僕はありがたい事に軽い症状の方で(それでも本当に辛かったですが。)、周りの方に恵まれていたために早期に復帰する事ができました。

 

 

 

 

この場を借りて御礼申し上げます。

 

本当にありがとうございました。

 

 

 

 

僕が陥ったパニック障害について簡単にご説明させてください。

※ファイザー(株)こころのひだまりサイト参照

 

 

パニック発作

思いがけないときに突然生じる、動悸や息切れ、強い不安を伴う発作です

パニック発作はパニック障害の中心となる症状です。
突然、激しい不安と動悸や息切れなどのさまざまなからだの症状が、何回も繰り返しあらわれます。
発作が生じると、「このまま死んでしまうかもしれない」と不安になることが多いのですが、実際にはパニック発作で死ぬことはなく、10分程度で激しい症状はおさまります。

 

僕に起こった症状は下記の症状です。

 

 

パニック発作の症状

心臓・呼吸器の症状
  • 心臓がドキドキする(動悸、心拍数の増加)
  • 息切れや息苦しさ
  • 喉に何かつまったような窒息感
   
 

 

感覚の異常
  • めまいやふらつき感、気が遠くなるような感じ
  • 今、起こっていることが現実ではないような感じ、自分が自分でない感じ
    (離人症状)
不安・おそれ
  • コントロールを失う・気が狂ってしまうのではないかという恐れ
  • このまま死んでしまうのではないかという恐れ

 

 

やはり、以前書いた様ないろいろな事柄が重なった事が原因のようです。

 

 

 

今はしっかり食って、しっかり寝ているので調子は良いです。

 

 

 

 

まだ、処方されている薬は飲みながら来る年末商戦と新事業に向けて体調を向上させて行きたいと思います。

 

 

 

 

重ね重ね、みんな本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

今日は、前回書ききれなかった僕のスーパースターの話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう。それは名古屋の大恩人、K社長。

 

 

 

 

社長に出会ったのは僕が兄貴の会社で飛び込みで国産のフルーツを売っていた時。

 

 

 

 

その日は売れなくて、諦めかけていた夕方5時過ぎに会社の前で作業しているお兄さんに声をかけました。

 

 

 

それが社長でした。

 

 

 

 

『名古屋駅の八百屋です。梨の特売でこの地域回ってます。最後余っちゃって、安くしてるんでいかがですか?』

 

 

 

 

社長は一旦は

『いや、いらねーよ。』

 

と言ったんですが、実は大の梨好き。笑

 

 

 

僕を呼び止め

 

 

『ちなみに、どんな梨がいくなの?』

 

 

 

と聞いてくれて僕が説明すると、残っている梨を約3万円分買ってくれました。笑

 

 

 

 

 

その後は何回も書いてますが、僕がホームレスになった時に快く拾ってくださり、営業代理店が潰れた時はは車一台と軌道に乗るまでの生活費をくださり、そして今回の件。

 

 

 

 

 

 

どの場面も社長がいなかったら僕は今頃、親不孝な発言ですが本当にこの世にいないと思います。

 

 

 

 

 

今回も、新しい事業の事業所を探している最中に僕の母親から電話がありその足で名古屋から茨城まで新幹線とつくばエクスプレスに乗って駆けつけてくれました。

 

 

 

 

 

今思い出しても、涙がとまりません。

 

 

 

 

 

僕の程度の文才で書くと全く伝わらないと思いますが、普通できないすよね。

 

 

 

 

 

だって、いくら昔面倒見てたからと言って、会った事もない女(社長が)にフラれて会社やってれば死ぬほど問題なんて起こる訳でそんくらいの事が重なったぐらいでパンクした元社員、しかも全く役に立っていなかった赤字社員の元に駆けつける社長がこの世界中探して何人いるか?

 

 

 

 

しかも時期は夏休み。

 

 

 

 

社長にはお子さんが4人もいて、1番下の子はまだ小学生。

 

 

 

1番パパと遊べる夏休みに、約1週間も僕の家に泊まってくれて、、、

 

 

 

 

 

僕が閉じこもってばっかりだからと何十年ぶりかに一緒にボクシングジムに行ってくれたり、夜にステーキ食わせてくれたり、東京まで遊び行ったりと、、、

 

 

そして、朝から市場に行ってくださってその後、お店で声出しながら八百屋もやってくれて…

 

 

 

 

何度も言いますが、社長にはご自分の会社が会って社員がクッソいっぱいいて、新しい事業の立ち上げがあって、夏休みの子供を抱えたパパでもある社長です。

 

 

 

 

 

そして僕は5年
ど前に、3年ほどお世話になって、社長に大損こかせた使えねー大馬鹿野郎です。

 

 

 

 

 

社長は世間一般的に、テレビに出たり本を書いたりしている様なタレント社長とは全く違います。

 

 

 

 

 

もしかしたら東京で社長の事を知ってるビジネスマンはいないかもしれません。

 

 

 

 

それでも、そんな小さな事全く気にしてないのです。

 

 

 

それでも誰よりもやる事やって、超結果だして、誰よりも周りの人の事を考えて幸せにして毎日挑戦してる超カッコいい大人の男です。

 

 

 

 

 

 

 

テレビや本でペラッペラッのカッコいい事を言っている人たちに憧れた時期もありました。

 

 

 

 

 

 

きっと今後も社長はどんなに事業を大きくされても、どんなスーパー好事業をやっても世の中には出ないと思います。

 

 

 

 

本人が興味ないから。笑

 

 

 

 

 

社長には申し訳ないけど僕は今回、病気になって良かったと思ってます。

 

 

 

 

社長との一生の思い出もたくさんできたし、改めて自分が目指すべき姿が再確認できたし、今の事業の限界を本当の意味で知る事できたから。

 

 

 

 

 

 

けど、まだ一ミリも社長に恩を返しておりません。

 

 

 

 

 

社長はそんな事、ぜーんぜん期待なんてしてないだろうけどいつの日か僕のおごりで旅行に行きたい。

 

 

 

 

社長が全く興味ない高級腕時計プレゼントしたい。

 

 

 

 

車だって家族分全員分買いたい。

 

 

 

 

 

 

それができる様になった時、はじめて今回病気になった事が本当に良かったと言える日が来るんだと思います。

 

 

 

 

 

これから徐々にではありますが、形を変えてペースを上げていきます。

 

 

 

いや、もうペースをあげるとか言うのやめます。

 

 

 

 

 

行動と結果のみ。

 

 

 

 

 

 

社長の様な男に、俺は絶対になる。

 

 

 

 

今日はそんな、僕のスーパースターのお話でした。

ボクシングの支持者を応援するサイト♪

 
俺達のプロレスラーDX
第182回 伝承こそ我が人生~全日本プロレスの歴史と共に生きる仕事人~/渕正信
 

 
1972年に旗揚げした全日本プロレスは今年(2017年)で創立45周年を迎えた。"世界の巨人"ジャイアント馬場が創立した”王道プロレス”全日本は離合集散を繰り返しながら、伝統と歴史を守ってきた。
 
幾多のスーパースターを生んだ老舗プロレス団体は時には分裂や離脱によって団体崩壊の危機を迎えながらも、その危機を乗り越えてきた。そんな王道プロレスのすべてを知るプロレスラー…渕正信である。王道の伝道師、全日本の番人、地獄の仕事人、赤鬼と数々の異名を持つ大ベテランの渕は全日本一筋で生きてきた。今年(2017年)でデビュー43年。全日本45年の歴史の中で実に43年間を知っているのが渕なのだ。
 
今回は全日本プロレスと共に生きるプロレスラー・渕正信のレスラー人生を追う。
 
渕正信は1954年1月14日福岡県北九州市に生まれた。
子供の頃から渕はプロレスが大好きで、力道山のプロレスを見て、プロレスごっこに勤しんでいたという。力道山亡き後はジャイアント馬場のファンとなった。小学生の時から人より体は大きかったが、運動は苦手だった。だが、ある一冊の本が12歳の渕を変えた。
 
「6年生のときに、古本屋で当時ベースボール・マガジン社から出ていた『プロレス&ボクシング』という月刊誌をおふくろに買ってもらった。その雑誌に、チャンピオンベルトを腰に巻いた鉄人ルー・テーズの写真が載っていたのです。名前は知ってはいましたが、その姿を見たのは初めて。上半身が逆三角形でかっこいいんですよ。すごいレスラーだなと思いながら一生懸命、写真を眺めていると、おふくろが『あんたも鍛えたら、こんな体になれるんじゃないの』と言うのです。それからですよ。腕立てや腹筋をやったり、早起きして朝、走り始めたのは。そうすると、どんどん運動能力が伸びてくるんですよね。クラス全員参加のリレーでアンカーを務めたとき、4着か5着でバトンを受けたのですが、前の走者を全部抜いて1番になったことがある。それで体力に自信を持つようになった。母親の一言というのは、大きいですよね」
【鶴田さんといきなりスパーリング…渕正信1 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
中学生になるとバスケットボール部に入部し、高校に進学した渕はバスケットボールを続け、陸上競技(200m走、走り幅跳び)で汗を流した。3年生の時にレスリング部に入部した。この頃から将来はプロレスラーになる事を夢見て日々練習に励んでいた。スクワットやブリッジワークで肉体を鍛え、レスリング以外にもボクシングや合気道を学んだ。いつかこれらの鍛錬が役に立つ日がくると信じて…。
 
高校を卒業したプロレスラーになると誓っていたが、両親から反対され、八幡大学に進学する。ところが…。

「ぼくが大学に進学して間もなく、昭和47年(1972年)7月29日に馬場さんが日本プロレスに辞表を出し、10月に全日本プロレスを旗揚げすることになった。いても立ってもいられなくなりましてね。運命のようなものを感じて、その翌日の30日に夜行列車で東京へ向かったのです。反対するおふくろから、いくばくかのお金を借りて。
(中略)
とっさの思いつきなので、泊まる場所のあてもないのです。当時のぼくらの2大ヒーローは、馬場さんと若大将こと加山雄三さん。加山さんの出ていた映画で茅ヶ崎の名前を知っていたので、茅ヶ崎で下車してアパートを探しました。茅ヶ崎だと全日本プロレスの事務所がある六本木まで近いだろうと。
(中略)
茅ヶ崎でアパートを借りて、デパートの店員の仕事を見つけ、働きながら体を鍛え、入門への準備をしました」
【鶴田さんといきなりスパーリング…渕正信1 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
渕は全日本プロレスの旗揚げ戦を茅ヶ崎のアパートで観戦し、全日本プロレスに入りたいという想いが強くなる。そして、1973年3月に全日本プロレス入門を直訴する。
馬場はハワイにいたため不在。事務所にいたスタッフから「練習に参加してみては…」と誘いをもらい道場に向かった。
 
道場には全日本に入団したばかりのスーパールーキーのジャンボ鶴田(当時は鶴田友美)がいた。
 
「掃除をしていると、まだ入団したてのジャンボ鶴田さんがやってきて、ぼくの履歴書を見て、『アマレスやってたんだ』と言うのです。それで『練習着、持っているか』と聞くので、『持っています』と答えると、『着替えろ』と。準備体操もなしで、いきなりアマレスの相手をさせられました。鶴田さんといえば、アマレスの五輪代表ですよ。それも重量級で、体はぼくの3回りくらい大きい。ぼろ雑巾にされました。そうこうしているうちに、マシオ駒さんら先輩レスラーがやってきて、『プロレスラーになりたいのか。体、細いけど大丈夫か』と聞くので、『大丈夫です』と。練習のあと、恵比寿の駅前で、鶴田さんにラーメンをごちそうしてもらいました。そのとき、鶴田さんは『アマレスをやりたかったんだよ』とうれしそうに話していました。鶴田さんはぼくの3つ年上で、年が近かったのでとくに親しみを感じてくれたのかもしれません。鶴田さんは、じきアメリカ遠征に出るのですが、それまでの間、しばらく目白の寮で一緒に暮らしていました。アメリカに発つ前には『おれはアメリカに行くが、絶対やめるなよ。頑張れよ』と言ってくれました」
【鶴田さんといきなりスパーリング…渕正信1 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
こうして全日本に入門した渕は新人第一号となった。だが一か月後、息子のプロレス入りを反対していた父が病魔に倒れたことにより一度、実家の福岡に戻ることになる。馬場からこんな言葉をかけられた。
 
「お前がまたプロレスをやりたいと思ったときは、いつでも帰ってきていいよ」
 
父の病気は快復し、故郷に戻った渕は最終的に父の了解を得て、プロレスラーへの道を歩むことになる。アルバイトをしながら、自主練を鍛錬し、1974年4月、全日本プロレスの事務所を訪ねた。そこには馬場がいた。
 
渕 「馬場さんの一言を頼りに、1年ぶりに戻ってきました。また、プロレスをやりたいので、よろしくお願いします」
馬場 「そうか。じゃあ、あした、道場に来い」
 
こうして渕は翌日に全日本の入門テストを受ける
とになる。ところが国鉄のストに巻き込まれ、遅刻してしまう。道場には鬼コーチのマシオ駒が待っていた。
 
「午前11時から練習開始なので、だいたい10時半までには着いていないといけないのに、着いたのは11時40分過ぎでした。『遅れてすみません』と侘びると、駒さんが『着替えてこい』と。それで着替えていくと、いきなりビンタですよ。そして、『おれはお前を買っていたのに、おれの信用をどうしてくれるんだ』と。こっちはもう『すみません』と謝るしかありません。すると駒さんは『どうだ。プロレス忘れなかったか。まず足の運動だ。きょうは初日だから、スクワット500回でいいよ』と。ふだん練習で500回やっているので、体調に問題なければ楽にクリアできるのですが、そのときは車酔いでもどして、ふらふらですよ。それでもなんとかクリアしたら、次は受け身です。駒さんにまず50回投げられ、『もうやめるか』『お願いします』というやりとりがあって、また50回。そういうやりとりが続いて、結局、200回投げられました。『無理』と言えば、入門できませんからね。もう途中から、何回投げられたかもわからない。ふらふらで気持ちがハイになっているから、『このまま死んでもいいや』と思いました。200回投げられて、駒さんが電話をしに行ったので、『これで休める』と思ったら、その場にいた元相撲取りの伊藤正男さんが、『休んだらダメだ』と言って、また投げ始めるのです。それで結局、30~40回投げられました。帰ってきた駒さんが言うには、『いま電話で馬場さんと話してきた。「渕は根性が入っているから、入門しても大丈夫です」と言っておいた。これで正式入門だ』。それを聞いて最初に思ったのは『じゃあ、最後の伊藤さんの投げはなんだったんだ』ということで、そのときは『感激して涙』という感じではなかったですね。最悪の体調で、あれだけのしごきに耐えることができたことで、自信がつきましたし、周りの先輩方の見る目が違ってきました。クツワダさん、伊藤さんといったように元相撲取りの先輩が多かったのですが、『相撲のかわいがりでも、あんなの見たことがなかった。よく頑張ったな』と言われました」
【大仁田と朝まで語り合った夜…渕正信2 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
地獄の苦しみを乗り越えて、全日本プロレスを再入門した渕はなんと入門した12日後にデビューすることになる。
移動中のフェリーの中で馬場から呼び出しを受けた渕は、プロレスの洗礼を受けることになる。
 
「移動のフェリーの中で、(ジャイアント)馬場さんが呼んでいるというので、馬場さんのところへ行きました。緊張しますよね。小さいころからの憧れの人ですから。すると、いきなり胸にばち~んと水平チョップを入れられたのです。馬場さんは手加減していたかもしれないけれど、とにかく痛いですよ。胸が苦しい。ただ、相手が馬場さんですから文句は言えません。『痛いか?』と聞くので、『痛いです』と答えると、『じゃあ、もう一発いくぞ』と。次は最初より強めに打たれたのですが、こっちに心構えがあるから、耐えられるわけですよ。『さっきのよりどうだ?』と聞かれたので、『覚悟がありましたので、大丈夫です』と答えると、馬場さんは『それがプロレスだ』と。そうやってプロレスは受けが大事だということを教えてくれたのです。そして、馬場さんから『お前、きょう、試合やってみろ』と言われました」
【馬場さんのチョップが胸にばち~ん…渕正信3 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
1974年4月22日の徳島大会で渕は大仁田厚を相手にデビューする。渕は大仁田とハル薗田と共に若手三羽烏として注文されることになる。だが、彼等以降の新人がデビューするまでかなり間が空くことになる。有望な新人が入門しては次々と辞めていく厳しい世界。1978年に越中詩郎が入門するまでこの若手三羽烏は4年間もの間、雑用係だったのである。
 
渕はデビュー当時からさまざまなレスラーにコーチを受けた。
 
「渕さんにとって幸せだったのは一流外国人レスラーが全日本にたくさん来ていたこと。ビル・ロビンソンや、レスリングが強かったアイアン・シークたちに教えてもらえたんですね。ロビンソンは鶴田さんにも教えていて、興行開始のリング上でガチンコの練習もやっていたんですよ。たまに渕さんもその中に入ってサブミッションの教わってたそうですけど。かなり大変だったと言ってましたね」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
渕はプロレスラーとなって長年、馬場の生き方とプロレスを見続けてきた。渕にとって馬場とは…。
 
「馬場さんは体が大きいので、大柄な外国人選手と互角に渡りあえる。力道山時代のように、小さな日本人が大きな外国人をやっつけるという図式ではなくて、馬場さんは外国人相手にスケールの大きい試合ができる。それまでの価値観をひっくりかえした。馬場さんらしい、スケールの大きい、力道山時代とは違ったプロレスを見せることができたので、プロレスブームが続いたのだと思います。選手としてだけでなく、プロモーターとしても一流でした。アメリカで、一流のプロモーターを目の当たりにして学んだんでしょうね。ビジネスの感覚もありました。選手との約束は必ず守りました。それが一番大事なことなのですが、守れないんですよね。そこが一流のプロモーターとそうでないプロモーターの差です」
【猪木さんが馬場さんに漏らした一言…渕正信4 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
そんな1976年の夏、全日本の道場に一人の格闘家が現れる。
 
岩釣兼生(いわつりかねお)
 
"柔道の鬼"木村政彦の愛弟子で1971年の全日本選手権を制し、巨日本トップクラスの柔道家だった。またUFC誕生以前にバーリ・トゥードルールで行われた地下格闘技トーナメントを制した影の最強男。そんな岩釣が全日本プロレスに入団することになる。目的はただ一つ。
 
「力道山にだまし討ちにあった木村政彦先生の敵を討ちたい」
 
岩釣は師匠・木村政彦と裸でのスパーリング、空手、ボクシング、脚関節などを含めた真剣勝負(いわゆるバーリトゥード)を前提にした一日7時間に及ぶ秘密特訓を受け、プロレスの世界に身を投じての「打倒プロレス」、「木村政彦vs力道山の復讐」に命を捧げる覚悟を決めていた。岩釣の標的は力道山の愛弟子であるジャイアント馬場ただ一人だった。
 
そんな岩釣のスパーリングパートナーに選ばれたのが渕だった。
 
「渕さ
は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にも出てきた岩釣(兼生)さんともスパーリングをやってましたから。岩釣さんは馬場さんに挑戦にしてきたけど、『全日本に入門する、しない』というの話になったでしょ。山田ジムで渕さんと岩釣さんがスパーすることになって、馬場さんは『おまえが負けたら俺がやらないといけなくなっちゃいんだよなあ…』と言っていたから、渕さんは『絶対に負けちゃいけない』と意気込んで。それで5分間やって引き分け。やっぱり柔道家は裸のレスリングは慣れていないし、プロレスラーはスタミナが凄いでしょ。頑張れちゃうんですよ。岩釣さんは『プロレスって大変なんですね』って言って帰ったみたいで。馬場さんはもしかしたら岩釣さんと渕さんのスパーに血が騒いだのか、珍しく『おい、やるか』ってことで渕さんとスパーリングをやったそうなんです。馬場さんに首根っこを掴まれた渕さんはキャンバスに寝かされ、顔面に肘打ちを食らって鼻血を出して、腕を極められて…」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】

 
渕とのスパーリング後、事態は思わぬ方向に向かう。
 
1976年、全日本プロレス入りが決まっていたが、契約書にサインする段階になって社長のジャイアント馬場と拓殖大学側の要求にずれがあり決裂、全日本プロレス入りは幻に終わった。
(中略)
拓殖大学側は「力道山にだまし討ちにあった木村政彦先生の敵を討ちたい」という考えで、社長の馬場に「デビュー戦はジャイアント馬場とやり、プロレスのアングルとして岩釣を勝たせる。その要求を呑めないならばリング上で真剣勝負に持ち込み馬場を潰す」という条件を突きつけた。
馬場はこの拓殖大学側の要求に怒り、「もしそういうことになったらウチの若いレスラーたちが岩釣君をリングから降ろさないが、そういう覚悟があるのか」と応じた。それに対して岩釣に付き添っていた拓殖大学の先輩が「この野郎っ! 拓大をなめるんじゃねえ! 貴様こそリングから降ろさんぞ!」と激怒、契約は白紙に戻された。
【岩釣兼生/wikipeida】
 
こうして岩釣兼生のプロレス入りは幻に終わった。
 
何故、岩釣のスパーリングパートナーに渕が指名されたのか?そこには馬場からの信頼があった。
 
「馬場さんも渕さんに任せておけば大丈夫だと思ってたんじゃないですか。アマレスをやっていたわけだし、全日本ってとにかく基礎練をやらせるから体力が凄くついてるんですよ。全日本の練習って本当にキツかったとみんな口を揃える。基礎体力を延々とやらせてフラフラになったあとに受け身やロープワークの練習をするんだから。フラフラの状態でなんでもやらされるから、本番が楽になっちゃうんですよね。練習と違って万全の状態」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 

だからこそ、渕は「プロレスは格闘技」と語る。ガチンコのスパーリングを散々してきたからこそである。その一方で「格闘技も含んだものがプロレスなのだ」とも…。
 
全日本での日々を通じて、渕は「プロレスはスタミナとバランスの良さだ」と感じるようになる。
新人時代について渕はこう振り返る。
 
「新弟子時代は月給制で、1か月6万円でした。それが昭和51年(1976年)、天龍(源一郎)さんが全日本に入団したころに歩合制になり、1試合2万円でした。試合に出ないとギャラはもらえないが、認められてたくさん試合に出れば、それだけ収入が増える。一人前のプロレスラーとして認められたと思うとうれしかったですね。当時は、ジャンボ鶴田さんが若くて、爽やかで、かっこよくて大人気でした。スポンサーに連れられて、六本木や銀座、赤坂に飲みに行くのに、よくご一緒させてもらいました。1シリーズ、だいたい30試合出ると、60万円じゃないですか。それからいくばくか天引きされた額を、シリーズ終了後、事務所で手渡しされるのですが、当時としてはかなりの額で体が震えました。ただ、そこから歩いてすぐが六本木の交差点ですよ。シリーズが終わると、2、3日オフ。若くて力が余っているので、それはもう飲みに行きますよね。次のシリーズが始まる前には、すっからかんです。ぼくも大仁田も薗田もそう。ぼくら3人は同じ九州の出身だったので、『九州の三羽烏』と呼ばれていたのですが、『3ばか』とも呼ばれていました。そういえば、天龍さんがアメリカ修行から帰国し、日本でデビューする前の公開練習の相手を務めたのが、ぼくでした。そのころは入門して3年たっていたし、若くてバネもあったので、どんな受け身もできるようになっていた。それでぽん、ぽん投げられた。ところが、天龍さんはデビュー戦で思うように動けず、自信を喪失してしまった。試合のあと、『渕だから投げられたんだよな』と悔しがっていました。大仁田が馬場さんの付け人で、薗田が雑用係、ぼくは配車係をしながら、ジョー(樋口)さんの下で外国人レスラーの世話役を手伝っていました。アメリカの一流レスラーのまいを目の当たりに見られたのは、いま振り返ると大きな財産ですね」
【馬場さんのチョップが胸にばち~ん…渕正信3 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
ちなみに同期の大仁田厚は「若手で一番センスがあったのは渕さん。めちゃくちゃ器用で、ドロックキックなんか一番うまかったよ」と語っている。
183cm 105kgのバランスの取れた肉体と玄人好みの確かなレスリングテクニックが渕のセールスポイントだった。若手時代はドロップキック、スモール・パッケージ・ホールド(首固め/インサイド・クレイドル)、逆エビ固めが得意だった。
1980年9月に海外武者修行に旅立った渕はアメリカ、カナダ、プエルトリコと各地を転戦していく。
 
「当時は、海外遠征に出て、凱旋帰国するのが一流選手の証しでした。(ジャンボ)鶴田さんや高千穂(明久、のちのザ・グレート・カブキ)さんらの話をいろいろ聞いていましたからね。アメリカマットへの憧れが、どんどん高じて『早くアメリカの空気を吸いたい。早く行きたい』と思っていました。最初は、NWAの総会が開かれるネバダ州のリノに、ジョー(樋口)さんと一緒に行ったのですが、そこには先に馬場さんも来ていて、ほかにもドリー・ファンク・シニアや、ジム・クロケット・ジュニア、ビンス・マクマホン、フランク・タニーといったそうそうたるビッグ・プロモーター、ブッカーがやってきていました。そこで馬場さんから、プエルトリコのカルロス・コロンとビクター・
ョビカに紹介されたのです。コロンによると、『おれが面倒をみるから』と。ところが、空港でプエルトリコへ向かう飛行機を待っていると、『1000ドル貸してくれないか。馬場には内緒だぞ』と頼むのです。リノのカジノでお金を全部すってしまった、と。『このプロモーター、本当に大丈夫かな』と思いましたが、これからお世話になる人だから、貸してあげました。幸い、現地に着いて4、5日もすると試合をさせてもらって、そのギャラをもらうときに貸していた1000ドルも返してもらえました」
【馬場さんのチョップが胸にばち~ん…渕正信3 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
海外遠征中に渕は”プロレスの神様”カール・ゴッチの指導を受けている。全日本のレスラーでゴッチの指導を受けた数少ない日本人レスラーがこの渕なのだ
 
「81年の秋にフロリダに転戦したときはゴッチさんの家に通って。試合が終わってヘロヘロになったあとに練習をさせられるから本当に大変だったそうですけど。ゴッチさんに「こんなこともできないのか!?」と怒られながら(笑)」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
実はこの頃のゴッチには全日本に参戦する話が上がっていたと渕は証言している。
 
「俺が(ゴッチ引き抜きを馬場さんに)持ちかけた。・・・(略)で、馬場さんが『ゴッチはまだ新日本との契約があるんじゃないか?』って言うんで、翌日、フロリダに来ていた鶴田さんを連れてゴッチの家に行ったの。・・・(略)それで鶴田さんを連れて行って話をしたらさ、『俺はもうフリーだ。いつでも全日本に上がれる』って言うから、その話を馬場さんにしたら。『おう、そうか』と。そのときはハンセンの移籍が水面下で決まってて、82年からはハンセン&ブロディのタッグが本格的に始動することが決まってた。それで、対抗馬にファンクスがいる。そしたら馬場さんが、『じゃあ、ゴッチを獲ったら・・・ロビンソンと組ませるか』って言うんだよ」
【実現しなかったカール・ゴッチの全日本プロレス参戦/】
 
だがゴッチは新日本と再契約を結び、全日本参戦の話は消えたのである。

 アメリカでは「マサ・フーチ」というリングネームで田吾作タイツの日本人ヒールとして大暴れする。ちなみにテネシーでは「ミスター・オーニタ」を名乗っていた大仁田厚とのコンビでAWA南部タッグ王座を獲得している。渕が得意にしているトップロープからのダイビング・フィストドロップはテネシー遠征時に取得したもの。テネシーを主戦場にしている多くのレスラー達はフィストドロップを得意にしていたのだ。
 
1983年8月に凱旋帰国を果たした渕だったが…。
 
「渕さんは大仁田さんから遅れること1年後に帰国しましたけど、そのときはもう全日本の前座の試合も様変わりしていたんです。佐藤昭雄さんが若いコを教えるようになってからは、三沢(光晴)や越中(詩郎)さんたちはバンバン動く試合をやっていた。渕さんら三羽烏の時代は殴る蹴るさえやっちゃいけなかったんですけど。
(中略)
帰国した後の渕さんの中には、プロレスとはまず寝技から始まって、基本技で組み立てて、最後はジャーマンやバックドロップで決めるものという考えがあったから」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
周囲からは「お前は地味だな」、「ジミー渕」、「ジミーくん」と揶揄された。同期の大仁田厚はチャボ・ゲレロを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得し、全日本ジュニアのエースとして活躍。後輩の三沢光晴は二代目タイガーマスクに変身し、あっという間にスターダムへと駆け上っていく。海外遠征から帰国しても渕は中堅に甘んじた。
 
渕はこう語る。
 
「俺のプロレス人生で一番焦った時期かもしれないね。
(中略)
海外で3年間やってきて凱旋したのに上に行けなくて、"この辺あたろでずっと俺はやっていくのかな"って。30歳目前だったから、"もう1回、アメリカに行かせてもらおうかな。このままじゃ、どうしようもないな"という想いだったよ」
【Gスピリッツ Vol.17 (タツミムック)/辰巳出版】

 そんな渕にクローズアップされるようになったのが1985年から始まった"革命戦士"長州力が率いるジャパン・プロレスとの対抗戦だった。
 
「ジャパン勢が来てからですよ、ようやく渕さんに存在感が出てきたのは。あのときは渕さんや石川(孝志)さん、大熊(元司)さんが本当に凄かった。ほら、プロレスファンも渕さんがゴッチさんのところにいたことも知ってるでしょ」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
渕と世界ジュニアヘビー級王座(旧・NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座)を巡り抗争を繰り広げた小林邦昭(当時・ジャパンプロレス)はこう語る。
 
「全日本で一番手応えがあったというか、燃えられたのは渕だったね。
(中略)
当時は渕とやってみて、うまいし、凄いなって思いましたよ。やっぱりゴッチさんのところで鍛えられているから、基礎はしっかりしてたしね」
【Kamipro No.142/ エンターブレイン】
 
1987年1月に小林を破り、悲願の世界ジュニアヘビー級王座を獲得した渕。ジャパンプロレスとの対抗戦について彼はこう振り返る。
 
「俺はやりやすかったね。
(中略)
全日本の選手は"相手も光らせるけど、その代わりにこっちもこれだけのことをやるぞ"という教育を受けているんだけど、ジャパンの選手は自分の見せ場だけ作って試合を終わらせようという感じだったから、"そんなもんじゃないぞ!"と試合を長引かせて反撃してたよね。向こうはスタミナがないからさ、そういう意味では全日本の方が余裕があったと思うよ。それを考えると長州にとっては鶴田さんと60分時間切れをやったのは誇りじゃないかな。
(中略)
考えてみたらそれ以後は、それまで全日本を口撃していたのに一切やらなくなったし。"お前らはワルツだ!"とか言っていた人間が、新日本に戻ってから一切、全日本の悪口を言わなくなったもんな」
【Gスピリッツ Vol.17 (タツミムック)/辰巳出版】
 
1987年春にジャパン・プロレスが分裂し、長州力ら主要メンバーは新日本にUターンしていった。
 
渕は凱旋帰国以降からバックドロップを得意技にするようになる。バックドロップといえば、憧れのレスラーだったルー・テーズの得意技で、先輩の鶴田の必殺技だ。元々は高角度の「ジャンピング式」だったが
、テーズの「バックドロップで大切なのは叩きつけるスピード、高さはあまり関係ない」というアドバイスを受け、「低空高速式」に移行している。このバックドロップは渕の代名詞となる。
 
小林が長州に同行し、新日本に戻ると、全日本ジュニアは渕の時代に突入する。世界ジュニアヘビー級王座の象徴として彼は長きに渡り君臨する。
 
一方で全日本はジャパン・プロレスとの対抗戦から、天龍革命によって鶴田と天龍の鶴龍対決が目玉となる。
 
「やっぱり迫力があったもんね。天龍さんの受けも凄かったし、鶴田さんの技のひとつひとつも凄かったよね。それに三冠統一の流れの中で鶴龍対決にハンセンとブロディが絡んだでしょ。鶴田さんとブロディ、天龍さんとハンセンの試合も凄かったじゃない。この4人だよ、やっぱり。
(中略)
実は馬場さんは鶴田&ブロディ組というのも考えていたんだ。だから、究極は鶴田&ブロディVS天龍&ハンセンのはずだったの。鶴田VS天龍は当然として、ハンセンVSブロディも観られる。
(中略)
馬場さんとしては日本人対決とかガイジン対決という枠を越えて、鶴田さん、天龍さん、ハンセン、ブロディの4人を軸としたスケールの大きな戦いを柱にしようと考えていたんだよ。夢があったよね。ブロディが死ななければ、その後の全日本プロレスの流れは大きく変わっていたんじゃないかな」
【Gスピリッツ Vol.17 (タツミムック)/辰巳出版】
 
1990年、天龍源一郎をはじめとする多くのレスラー達が新団体SWSに移籍、全日本は窮地に立たされる。この事態に渕は八面六臂の活躍を見せる。
 

天龍離脱によって三沢光晴を筆頭とした若い世代が台頭し、打倒ジャンボ鶴田を掲げ、「超世代軍」を結成。渕は鶴田を支える「鶴田軍」の参謀として立ちはだかった。地方大会や後楽園大会でのメインイベントとなる6人タッグマッチにはよく渕は名を連ねていた。彼が主体となった腕や足への徹底的な一点集中攻撃、ロープやコーナーを使った数々の拷問技が猛威を振い、あまりの非情ぶりに「赤鬼」という異名をほしいままにしていた。ヒザへの低空ドロップキックがクローズアップされたのもこの時期だ。
 
また、世界ジュニアヘビー級王座の防衛ロードもひた走った。特に3回目の戴冠時には、1989年10月から1993年5月にかけて実に13度の防衛に成功、3年7回目の長期政権を樹立。特に"火の玉小僧"菊地毅の高き壁となったのが渕。1993年2月のタイトル戦ではバックドロップ10連発で完全勝利。全日本ジュニア最強の男の恐ろしさと凄さを満天下に示した。
 
永源遙や大熊元司らと共に悪役商会の一員として馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を展開、コミカル路線もこなした。特に木村の試合後のマイクパフォーマンスではいつも渕は「独身ネタ」でいじられていた。
 
そして、渕は馬場の懐刀としてマッチメイクにも関わるようになる。
 
「天龍さんが全日本をやめたあと。超世代軍vs鶴田軍、四天王プロレスのときは渕さんが現場責任者。つまり超世代軍を育てたのは渕さんでもあったんです。馬場さんがどこまで渕さんに預けていたかはわからないけども、馬場さんがマッチメイクを渕さんに相談したりとか、選手たちに『こういう試合をしてくれ』『こういう技を使ったほうがいい』とアドバイスしていたんです。「プロレスはこういうふうに見せないとダメだ」ということが渕さんはちゃんとわかっていましたから。あの人の功績はかなり大きいんじゃないかと思いますね」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
 
あの鶴田をただ一度日本人相手にギブアップ負けを喫した三沢のフェースロック。あのフェースロック誕生にも渕は一枚かんでいた。ちなみに三沢がフェースロックを初公開した時の相手は渕だった。
 
「プロレスのギブアップ技は、技をかけてるほうとやれられてる2人の顔をちゃんと見せるものという考えがあって。足4の字固めも2人の顔がちゃんと見えますよね。猪木さんのコブラツイストも2人の顔が見える。卍固めはやられてるほうの顔がちゃんとは見えないけども、チラッと見える。だから三沢のフェイスロックは相手の身体に足をかけて、相手の顔が見えるようにしてるんです。あの2人はアマレス出身だから普段の練習から『こういう技がいいんじゃないか』と話し合っていたんでしょうね」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
超世代軍の爆発的人気、鶴田の怪物的強さ、外国人レスラーの凄み、馬場の健在さ、ファミリー軍団VS悪役商会のお笑いプロレスなどあらゆる要因が重なり、全日本は復活する。そこには「鶴田軍」の参謀となり、ジュニアの絶対王者として君臨し、コメディ路線もこなし、マッチメーカーとして成功を収めた渕の多面性溢れるプロレス技量と器量があったのだ。
 
そんな渕が現場責任者として関わったのが三沢光晴、川田利明、小橋健太、田上明の四人が中心となって展開された「四天王プロレス」である。
 
四天王プロレス(してんのうプロレス)は、1990年代に日本のプロレス団体全日本プロレスに所属するプロレス四天王と呼ばれるプロレスラーたちが中心となって行った試合スタイル。リングアウトや反則などプロレスが持つ不透明な要素を排除してピンフォールによる決着のみを目指し、相手を立ち上がれない状態に追い込むために脳天から垂直に落下させる技や高角度でリングから場外に落とす技を多く繰り出した。四天王プロレスは全日本プロレスが興行の目玉であった鶴龍対決を失った状況下で成立し、プロレスファンからの熱狂的な支持を集めた。その影響はプロレス界全体に及び、多くの団体が試合において危険な技を応酬させるようになったともいわれる。
【四天王プロレス/wikipedia】
 
渕は命を落としかけない危険な攻防に発展していった四天王プロレスについてこう語っている。
 
「それはね、俺も心配した。四天王だけじゃなくて、ウイリアムスのバックドロップとかね。その頃になると、(大技が)2発も3発も決まらないと決着がつかない感じだったし、どこかで歯止めを掛けなきゃという気持ちはあったよ。たださ、俺もそうだけど、馬場さんも“こいつらなら大丈夫だ”っていう信頼感はあったと思う。
(中略)
俺はね、四天王プロレスを『頭から落とすプロレス』と一言で片づけられたら心外だよ。それは確かに一つの要素なんだけど、そこに行くまでの本当の四天王プロレスっていうのは、一つの技を大切にして、観客
喜びとか昂揚感とか様々な感情を呼び起こすプロレスであって、それを出来る人間たちがああいう試合をやってたわけだよ。頭から落とす云々というのは、それも一つの驚きとして見せるんだけど、そこに至るまでのドキドキ感は基本的な技で見せているわけだし、そこには間合いもあるわけだからさ。それを上っ面の見様見真似でさ、大技をバンバンやるだけのプロレスを指して、“このベースになっているのは四天王プロレスです”って言われたから、それは違うよと。四天王の試合はプロレスからお客さんを惹きつけていたし、頭から落とすのは、その一部でしかない。それが全てだとは思われたから、とんでもないよ。それに四天王の間には、確かな技術に裏打ちされた信頼感があったわけだから」
【現場責任者・渕正信が語る四天王プロレスの深層「三沢は首で受け身を取るんだよ」=Gスピリッツ発/スポーツナビ】

 
全日本のマッチメーカーとして辣腕を振るってきた渕だったが…。
 
「1998年夏から全日本の現場責任者が渕さんから三沢に移ったんですけど。これは推測になっちゃうんですけども、三沢たちからすれば、渕さんのマッチメイクにはかなり疲れたんでしょうね。かなりストレスがあったと思うんですよ。厳しいマッチメイクが毎日続いたと思うし、三沢たちからすれば、手は抜けないから毎日激しい試合をやった。そうなると『俺たちのことを何だと思ってるんだ?』という感情が芽生えたとしてもおかしくない。そこで選手たちの不満を抑えるためにも三沢が馬場さんに直訴して現場責任者に就いたんです」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
そんな渕にとってプロレスラーとしての思い出であり、誇りとなっていることがある。
それは馬場と鶴田の生涯ラストマッチの対戦相手となったことだという。また馬場の還暦試合の相手となり、馬場の十八番であるランニング・ネックブリーカードロップを食らいフォール負けを喫したこともいい思い出だ。ちなみに馬場がこの技を生涯最後に見舞ったのは還暦試合。渕は馬場の伝家の宝刀を最後に食らったレスラーとなった。
 
1999年1月31日師匠・ジャイアント馬場逝去。
渕はこの時の心境をこう語る。
 
「(レフェリーの和田)京平ちゃんから、泣きながら電話があり、馬場さんが亡くなったことを知りました。病状を詳しく知らされていなかったので、まさか亡くなるとは思ってはいませんでした。タクシーで恵比寿の馬場さん宅に駆けつけましたが、ご遺体に対面しても、寝ているようで、涙が出たり、悲しかったりという気持ちではありませんでした。そういった感情になったのは、日本テレビの追悼番組の収録を終え、ラッシャー(木村)さんらと酒を酌み交わし、思い出話をしていたときでした。互いに酒を飲みながら、『ああ、馬場さんはもういなんだなぁ。むなしいな。せつないな』と言い合ったものでした」
【猪木さんが馬場さんに漏らした一言…渕正信4 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
全日本は三沢光晴が新社長に就任する。渕の存在は次第に薄くなっていく。実は三沢と渕はジャンボ鶴田野引退セレモニーなどを巡り、意見が対立していたこともあったという。プロレスに対して情熱を失い始めていた。
 
さらに2000年5月13日ジャンボ鶴田急死。
渕はその訃報を聞いてどう感じたのだろうか。
 
「ジャンボ鶴田さんの訃報は、プロレス評論家の門馬忠雄さんから知らされました。『フィリピンのマニラで亡くなった』と言うから、『え、日本にいたんじゃなかったの』と。その半年くらい前に、電話で話したのが最後のやりとりになりました。その時は『いま東京なんだけど、じき(研究員として赴任していた大学があるアメリカの)オレゴンに帰らなくてはいけない』『どうなんですか、調子は?』『変わらないよ』というやりとりを交わしました。鶴田さんがB型肝炎を発症したことを公表したのが平成4年(1992年)11月。いきなり肝臓の数値が上がったと言うのです。病院から電話がかかってきて『いや、まいったよ。プロレスしたいよ』と。馬場さんもそうだけど、鶴田さんは僕にとってのスーパーヒーロー。亡くなるとは思っていない。ぼくが生きている間は生きているものだと、ごく自然に思っていました。その喪失感は大きかったですし、驚き、むなしさ、人生を感じましたね」
【病気の鶴田さんが「プロレスしたいよ」……渕正信5 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
鶴田の訃報からわずか一か月後の2000年6月、またしても全日本に激震が起こる。三沢光晴を中心に大半の選手やスタッフ達が全日本に離脱し、新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げする。
 
渕はその頃、実家の福岡にいた。実はプロレスを引退し、実家に戻ることを考えていた。
 
 
「そのときは個人的な用事で、故郷の北九州の自宅に帰省していました。スポーツ新聞で三沢の退団を知り、『これで終わりか。分裂して新しい全日本プロレスになるんだな』と思いました。なにせ三沢をはじめ、小橋(建太)、田上(明)、秋山(準)といった主だった選手が全員抜けたのですから。すると、自宅に川田(利明)から電話が入ったのです。『みんないなくなりましたが、僕は残ります』と言うのです。それには『え~っ!』とびっくりしました。たぶん川田もついていくだろうと思っていましたから。川田が言うには、『(レフェリーの和田)京平さんとリングを作る裏方さん、リングアナウンサーも残る』そこで考えたのです。『レスラーが2人いて、レフェリー、リングアナ、リングを造る人がいれば、いちおう試合はできるな』と。天下の全日本プロレスが、世界で一番小さい団体になってしまった。それにテレビの放送もない。それでも、『とにかく(翌年予定されていた)馬場さんの3回忌の興行まで、いまいるメンバーで頑張ってみよう』と思ったのです。半分開き直りですよね」
【病気の鶴田さんが「プロレスしたいよ」……渕正信5 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
こうして全日本に残留した渕。川田と二人だけの日本人レスラー、馬場の愛弟子であるマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)、常連外国人レスラー達で再出発した全日本。崩壊危機を乗り越え、存亡を賭けて、新日本プロレスとの対抗戦に活路を見出すことになる。
 
2000年8月11日新日本プロレス・両国国技館大会。G1CLIMAXの公式戦が行われた中で、渕はスーツ姿でたった一人で乗り込んでいった。
 
「その日は、新日本のファンにつかまれて破れて
もいいように、一番安いスーツを着ていきました。たった1人ですからね。ただ、意外と冷静でした。ファンの方々は、『新日本をぶっつぶす』くらいの過激な発言を期待していたかもしれませんが、堂々とリングにあがって、落ち着いて、自分のスタイルで話そうと思っていました。馬場さんは、『球界の紳士たれ』がモットーの巨人軍の出身じゃないですか。全日本プロレスは、やはり紳士的でないといけないと思うのです。あとちゃんと聞いていて、わかるようにと。マイクアピールの際に、いつもラッシャー(木村)さんからそう言われていましたから」
【病気の鶴田さんが「プロレスしたいよ」……渕正信5 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 
渕はリングに上がり、一世一代のマイクパフォーマンスを行う。
 
「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました(というと渕は拳を握ってアピールする)。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいません!」
 
正々堂々たる渕のマイクに歓声が沸き起こる。すると当時の新日本現場責任者の長州力が姿を現し、渕と握手する。そこに黒のカリスマ・蝶野正洋が乱入し、渕に噛みついた。
 
「ここはテメェの上がるリングじゃねぇんだオラ! とっとと降りろ!」
 
そういうと蝶野は被っていた帽子を渕に投げつけた。それでも冷静沈着の渕はその帽子を被る余裕を見せつけ、長州と蝶野で繰り広げた乱闘を静かに見守っていた。そして、リングを後にする蝶野に「蝶野、忘れ物だ」といって、帽子を投げて返し、最後に観衆にマイクで締めの挨拶をする。
 
「我々は逃げも隠れもしない! 蝶野、来るなら来い!新日本プロレスのファンの皆様、お騒がせしました」
 
神風が吹き、渕に大歓声が巻き起こった。
この渕のマイクは歴史の残るマイクパフォーマンスとして後世に語られている。
 
武藤敬司や小島聡、ケンドー・カシンといった新日本の選手が全日本に移籍し、全日本は生き残り、渕は王道の番人として武藤体制となった全日本を支えた。だが…。
 
渕は和田京平レフェリーと共に、団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもあったが、2009年より全日本プロレスの所属レスラーとしての契約をしていない事と同社取締役を同年に辞任していた事が判明し、以降フリーランスの立場で全日本プロレスに参戦していた。
【渕正信/wikipedia】
 
2013年、全日本はまたも、分裂の憂き目にあう。前年に就任した新オーナーと武藤敬司が対立し、武藤を中心とした主力メンバーが全日本を離脱し、新団体「WRESTLE-1」を旗揚げする。
 
その最中に再び表舞台に登場したのが渕だった。全日本取締役に就任した渕を後押ししたのが、同年に全日本にUターンしていた秋山準だったという。
 
「だいぶ経ってから秋山たちが全日本に帰ってきましたけど、そのあと全日本とW?1に分裂したじゃないですか。そのとき全日本に残った秋山は『渕さんだけはどうしても残ってほしい』とお願いした。それは“あの時代”を作ったのは渕さんだということを秋山は知ってるからです。真っさらから新しい全日本を作っていく上で、絶対に欠かせない人ということですよね。渕さんは団体を立て直す手法を知っている」
【Dropkick 全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」】
 
今年(2017年)で渕は63歳、キャリア43年を迎えた。彼は今も現役プロレスラーとして秋山体制となった全日本のリングに上がっている。馬場がいない、鶴田も天龍も三沢も川田も武藤もいない王道プロレスの歴史を知る男のレスラー人生は全日本の歴史そのものである。馬場全日本、三沢全日本、武藤全日本、秋山全日本と時代の流れの共に変動していく中でも全日本の番人であり続ける彼はまさしくミスター全日本プロレスともいえる。
 
一つの団体に実に40年以上もプロレスラーとして在籍している選手は世界広しといえども、渕ぐらいではないかもしれない。
 
「いまのプロレスは、昔と比べると随分複雑になりました。華々しい技の攻防があって、それが素晴らしいこととされています。時代が変わったといえば、それまでですが、やはりプロレスラーとしては基本技が大事。ヘッドロックにしろ、腕のとり方にしろ、基本はないがしろにしないよう自ら手本を示していきたいです」
【病気の鶴田さんが「プロレスしたいよ」……渕正信5 プロレス・レジェンド再探訪/YOMIURI ONLINE】
 

ミスター全日本プロレス・渕正信。
その振る舞いと哲学が王道であり、全日本の歴史と伝統。
渕はプロレスの世界でこれらを伝承していくことを生き甲斐にしている。歴史とは伝承する者がいなければ、後世に語られない。渕のような生き証人が伝承作業を行うことで歴史は受け継がれていき、時代を越えても残るのだ。伝承こそ我が人生…それが渕という男なのだ。
 
ささやかに生き、さりげなく偉大で、いざという時に団体を死守するために立ち上がった男の生き様が全日本を支え、プロレス界の良心であり続けたのだ。
 
彼は人生を全うし、いつの日か、天国に旅立ち、馬場や鶴田、三沢と再会した時に自分の事よりも彼らが知らない「その後の全日本」を語る日が来ることを心待ちしているのかもしれない。それこそ伝承することに人生を捧げた男にとって"最高の勲章"なのだ。
 
 

 
 

 
 
 
 

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