シルビア ニンゲンは、ニンジンだけじゃ動かない。
シアターコクーンで上演中の、前川知大作・長塚圭史演出『プレイヤー』を観てきました。
イキウメの前川知大さんの脚本を、長塚圭史さんが演出すると、どんな感じになるのかな、と興味津々で観に行きましたが、前川さんらしさも、長塚さんらしさもありながら、そのどちらでもない何か別のものが生まれた、という感じがして、おもしろかったです。
実際、何回か前川さんが稽古場に足を運んで脚本を書き換えたりしていたようなので、共同作業のようなところもあったのでしょうか。
ただ、イキウメの世界では、“ヒューマニズム”に包まれながら、うっすらと見えていたり、感じられたりすることが、長塚さんが演出すると、より前面に出てきて先鋭化された感じがあって、そこが強調された感じはありました。
なので、観る人によって好みは別れるかな、と思いますが、私自身は、「危うさ」に関心をひかれながら観ていた感じで、そういう意味では、ある種のホラーだったな、という気もしています。
劇中劇と、現実とが混在して話が進行するんですが、私は現実と虚構の境目をゆらゆらするのは好きなので、その両者を行ったり来たりしながら観ているのは楽しかったです。
以下、ネタバレをしていますので、未見の方は自己判断のもと、お読みください!
2017年8月12日(土)14時
シアターコクーン
作・前川知大
演出・長塚圭史
出演・藤原竜也 仲村トオル 成海璃子 シルビア・グラブ 峯村リエ 高橋努 安井順平 村川絵梨 長井短 大鶴佐助 本折最強さとし 櫻井章喜 木場勝巳 真飛聖
とある地方都市の公共劇場で、『PLAYER』という新作が上演されることになり、国民的なスターから小劇場の俳優、地元の大学生までといろいろなキャリアをもつ者達が集められ、稽古を行っています。
この脚本の作者は死亡しており、脚本は未完成なんですが、新しくこの劇場のプロデューサーとして赴任してきた神山(峯村リエ)は、何らかの思いがあって、この作品の上演を決めた様子。そして、稽古をする中で作品を完成させてほしいと、演出家や俳優達に要請しています。
劇中劇『PLAYER』では、行方不明の後、遺体で見つかった天野真という女性の言葉を、天野を知る人物達が無意識にしゃべってしまうことから、天野は死後、肉体が滅びた後も知人達の記憶のポイントからアクセスして知人の肉体を通して言葉を伝え、意識として存在している、ということが現されます。
この、記憶にアクセス、というのは、イキウメ・カタルシツでの、『語る室』にも出てきました。
天野の死に不信を抱いた警察官の桜井(藤原竜也)は、天野が生前通っていた瞑想の指導者の時枝(仲村トオル)に接触します。
が、桜井は時枝を疑って瞑想のワークショップに通ううちに、いつしかその主張に感化されていきます。
時枝のワークショップは、時に催眠術を導入しながら、瞑想によって、肉体の限界や生死の境、時間や空間を超え、意識として存在することを目指すもの。
そして、肉体の檻から出た後に自分の言葉を再生することのできるものがプレイヤーであり、誰をプレイヤーにするかは生前から決めておく・・・
(これには、魂にも期限があるから、と言っていたように思いますが、ちょっとここは記憶があいまいです)
時枝は、人が肉体に規定されずに存在できるようになるということは、ひいては、人口問題や環境問題の解決にも寄与することで、自分たちの行っていることは、世界を救うことなのだ、と言います。
そして、それを達成したのが行方不明になっていた天野である、と。
他から見れば、自殺幇助や殺人にも見えることが、このグループのメンバーにとっては、「世界を救うための一歩」の、「正しいこと」。
桜井の同僚の警察官の有馬(高橋努)は、時枝に影響されていく桜井に危機感を覚え、グループから離れるように言うんですが、時枝とその仲間達は、彼らを否定する有馬に、その主張を強引に“体感”させます。
その過程で、時枝の助手の神崎(成海璃子)が自ら命を絶ち、無差別殺人が「世界を救うことになる」ということを有馬に体感させる。
ここの描写は、長塚さんらしい感じで、暴力的で、容赦がなく、恐ろしかった。
洗脳の過程や、正義の名の下に暴力を肯定していくシーンを見ていると、過去にあった、宗教団体が起こしたテロ事件を連想してしまいました。
が、宗教団体に限らず、イデオロギーにもとづく活動なども、この世界への不全感が攻撃に転じた時、これからもこうしたことはありうるだろうと思われて、その危うさに戦慄を覚えながら観ていました。
一方で、この世界に対する絶望感ーそれは、この3次元で、この肉体で生きているゆえの限界が引き起こすものーという感覚も、わからなくはなくて、それゆえ、今の人類の限界を超えた存在になるべき、という人類のアップデート、という考えもわかる気はします。
『プレイヤー』を観る前に観たでも、神はいるのか、という命題にそれと似たものを感じました。肉体の檻を超えて、便器になっていましたけど(笑)
また、今の自分たちがこの視覚や聴覚などを通じて感じていることは、部分的なものなのかもしれず、私達が感知できないだけで、それらを超えた世界がある、とい
うのもすべてを否定する気にはなりません。そんな世界に触れさせてくれるのも、前川作品ならではで。
劇中劇が終盤に向かうと、俳優のみならず、演出家やプロデューサーも、まるで誰かからけしかけられているように、未完の脚本のその先へ、先へと、より現実と虚構が混沌となる世界を創っていきました。
唯一、冷静だったのが演出助手の小松崎(安井順平)で、彼の言動や表情が、現実との位置関係を示してくれて、ほっとしたのを覚えています。
劇中劇の最後、有馬が時枝をバットで殴り、時枝は血を流して動かなくなっていましたが、あれははたして劇中劇だったのか、現実だったのか、それをもってして、この脚本は完成したといえるのか?
そして、俳優ではないのに、あのメンバーの中に入っていた時枝、本当は彼は・・?
ラスト、桜井が、プロデューサーにある言葉を話します。
それを聞いて嬉しそうに応えるプロデューサー。
これまで観てきた私には、それが誰の言葉かわかったし、脚本が完成した後、
「これをネットで流してよ。」と言った桜井の言葉が、私の胸に不穏な影を落とすのでした。
桜井を演じた藤原竜也さん、国民的スターの役じゃなかった(笑)あまり売れていない俳優、という役どころが新鮮でおもしろかったです。でも、徐々に回りに洗脳され、狂気を帯びていくところの表現はさすがでした。
時枝を演じた仲村トオルさん、イキウメの作品では、どこかに“陽”の部分を感じさせることが多かったように思いますが、今回は、寡黙で、謎めいていて、深読みすればいろいろと考えられるただならぬ存在感が印象的でした。
その他の俳優さん達も、劇中劇との二役を演じたり、現実のみの役柄でも虚構との境目に入っていったりしながら、それぞれ登場人物のキャラクターをよく体現していたと思います。
この『プレイヤー』という作品は、脚本家が書いた言葉を俳優がその肉体を通して具現化する、という演劇そのものを描いてもいるし、また、観客は、座席にいながら、俳優の演技を通して、時間や空間、生死までも自由に行き来できる体験ができるのだなあ、と改めて思って、演劇が創り出すものの大きさと拡がりを思ったのでした。