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物忘れ

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(つづき)

鬱にも様々な種類があります。

60代で定年を迎えて子育てや姑の介護が終わった無気力な時期に、加齢による体調不良が重なり、病院に行ったら「うつ病」と診断されたケース。

音大生で、青春期を先輩後輩との競争に費やしたあげくコンクールで賞を取っても仕事がない。さらに教授の派閥争いに巻き込まれて「パニック障害」と診断されたケース。

こういう人は、ハープ界だけでなくピアノ界にもバイオリン界にもいます。

(バイオリニストのご両親からも息子さんの鬱病の相談を受けてアドバイスしましたが、不思議とハープに興味ない人には私の治療法は効かないみたいでした…患者さん側にも、私を尊敬し信頼してくれる気持ちがないと難しいのでしょうね)

どちらにしても、成功してスポットライトを浴びる音楽家は、ごく1割の人だけなのです。

音大出身生で、うつ病と診断され薬漬けの生活を続けた結果、高校時代大学時代と10年ものあいだ生理が一度もこない、という可哀想な学生時代を過ごした人もいます。

私は、自分の経験から、彼女たちには、一刻も早く病院に行き薬を減らしてもらうように医師に頼みなさいと薦めています。

私の経験では、薬をやめれば逆にうつ病が治ってしまうケースが殆どです。薬による頭痛や物忘れ、妄想、火照り汗、食欲増進剤による肥満、ジンマシンなどの副作用がでますから、それで余計に自信喪失して社会復帰できない訳です。

とくに、副作用は殆どないから大丈夫といって睡眠薬を簡単に処方する医師が多いです(私のときもそうでした)。

しかし、それは短期間の服用の場合であって、数年以上にわたり毎日睡眠薬を飲み続けていれば、麻薬と同様に幻覚症状が出ます。薬がなければ眠れないと思い込み依存するようになります。最初は一錠で眠れていたのに次第に効かなくなり、二錠、三錠…と増えていく危険性が高い。

薬害は侮れないと思います。

そして、

医療関係の皆様にお願いしたいのは、「うつ」「パニック障害」「(一生治らないとされる)統合失調症」等という言葉を軽々しく使わないでほしいという事。

精神的に不安定になる人というのは、もともと人一倍真面目で思い込みが激しく、他人の言うことを100パーセント鵜呑みにします。

相手が医師であれば、なおさら、たったひと一言を真に受けて自殺を考えるほど悩む毎日を送ります。

医師にしてみれば「鬱ですね。薬を飲んで様子を見ましょう」という軽い入り口のつもりなのでしょうが、

患者にしてみれば、それを聞き流せるような要領の良い性格ならば病気にはならないので「私はダメ人間なんだ。薬がなければ死ぬ」と曲解して重く受け止めてしまいます。

しかも、やっかいなことに患者さんはそうやって医師の言葉に苦しんでいることや、薬の副作用による体調不良を医師に告げることが出来ません。

相手にサラリと苦情を言えるような性格ならば鬱にはならないからです。病気が悪化するのは医師が悪いのではなく、自分が悪いのだと自らを責めて余計に悪化します。医師も申告されないので処方の過ちに気づかず悪循環。

鬱の患者さんは、自分の気持ちを伝えるのに人の何倍も時間がかかりますから、混み合った診察室の慌ただしい雰囲気のなかでは難しいのでしょうね。こちらが和やかな空気感をつくり、患者さんの目を見て忍耐強く待てば、ちゃんと気持ちを話せます。

私の知る限りでは、前者のケース、つまり高齢による精神不安は「うつ病」と断定しなくても良いのではないかと考えます。

私の母のように気丈でエネルギッシュな人でさえも、加齢による体調不良や手術が重なれば落ち込んでしまう気力の波があります。

でも、母の気力を支えているのは母を必要としてくれている多くの生徒さんであり、70代後半になっても生き甲斐があるから認知症にならずにがんばれていると本人も感謝していました。

最近、ハープ教室にご入会された60代の生徒さんは、キャリアウーマンで立派に仕事をしていたのに、定年後にやることがなくなって無気力な鬱状態になりました。

でも、病院に行ったら「薬を飲むより、習い事をして第2の人生を楽しくスタートすれば治りますよ」と診断されたそうです。

薬を出せば儲かるだろうけれども、必要ないときは正直にそう言える素敵なお医者さんだな、と思います。

次に、後者の音大生のようなケース。

これも、私の見解では根本的に本人の性格が鬱という訳ではないため、薬を処方するとしても数ヶ月以内の短期間に止めて欲しい、と考えます。

誰だって、理不尽な競争の環境に長年身を置けば精神的に不安定になりますよね。

薬を与えるよりも、環境を変えるようアドバイスしてあげるべきです。

私のハープカウンセリングの一例ですが、

コンクールで競争するために指に出来た血マメを針で潰しバンドエイドを巻いて泣きながら練習し、さらにジムにトレーニングに行って表層筋肉を鍛え、力まかせにハープを弾いて10年鬱病と闘ってきた音大生に対して、

力を抜いて指を痛めずに美しい音色を奏でられる技術を教え、音楽する本当の喜びを伝えただけでも、たった3か月で彼女の人生に笑顔を取り戻してあげることが出来ました。

鬱が悪化すると、包丁を振り回したり、家庭内暴力をふるうケースも多々ありますが、これも、患者さん本来の性格が凶暴な訳ではありませんので、ご家族は理解してあげてください。

むしろ、温和で優しい性格の人が、競争社会に迷い込んでしまったがゆえに居場所をなくしストレスで自我崩壊したことに起因する行為である、と私は感じます。

水槽に住む魚のごとく、濁った水を捨て美しい水に移し換えてあげさえすれば…つまり、競争しなくてよい環境に移してあげさえすれば、暴力はぜったいに再発しません。

「皆は頑張っているのに、あなたは弱いから病気になるのよ!」という捨て台詞をご家族は言ってしまいがちですが、暴力を助長しますのでNGです。

世の中には、他人に勝つためには頑張れなくても、他人を喜ばすためになら頑張れる人もいるのです。

そういうタイプの人には、ただ「頑張れ!」と尻を叩くのではなく、試験や出世以外の手段で人を喜ばせる方法があることを伝え、そのための技術を根気強く教えなければいけないのです。

我々は、信頼できる医師を選ぶ賢明さと、自らに適した環境を選ぶ勇気をもたなくてはならない、と強く思います。


(つづく)

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「他人の話はほどほどに聞く」

 

というのが、これは申し訳ないのですが本当に学生時代からやってきてしまっている自分の「生きていくための、多分自分にしか適用されないであろう生活の知恵」なのです。だからよく「真剣じゃない」と怒られます。いや、真剣にいい加減なんですけどね。なかなか理解されない。

 

たとえばなんですけどね、僕は半分「悩みを聴く」というのを仕事にしています。そうすると悩みの原因ってけっこう

 

・お母さんはこう言っている(←もしくはハッキリとそう言われたことはないけど、態度から見て「そう言うに決まっている」と思っている)

 

・周りはこうしている

 

・なんとなく不安

 

みたいな感じなのですね。不安って「自分」を持っていないことで増幅していきます

 

ここでいう「自分」って何かというと、弱点も含めて「まぁ、自分にはこういうところがあるよね」っていう、小難しい言葉で言うと「傾向性」のことです。「こういう場面をわりと苦手とする」とかですね。「こうすると喜ぶ」という自分を知っている人とかは、すごく逆境に際しても強いです。正解の軸が「周りの環境」ではなくて、自分だからです。

 

たとえば僕なんかは、病気レベルで物忘れが激しいのです。「覚えている分野」がかなり狭い。その「大事な約束をうっかり覚えていなくてすっぽかして、大ひんしゅくをいただく」というようなことって、もうどんなに気をつけてても起きます。「明日連絡をする」と言って、言われないと1年待たせてブチ切れられたことなんてしょっちゅうです(ごめんなさい)。近所の薬局にトイレットペーパーを買いに行ったのにすぐに忘れて3往復した時は絶望的な気分になりました。考え事をしている時って本当にそういうのがしょっちゅう起こる。

 

だからメモを書いて目につくところに貼っています。「なんで忘れてしまうんだ」って責めてもしょうがないからです。

 

「もっとしっかりしなよ」と他人から言われてでもですね、もちろんそれを受け入れて改善していけたらと思っています。努力もします。でも、一方で「自分の進行スピード」って自分で把握しておいた方が良いと思うのです。「直していくつもりだけど、ちょっと時間がかかりそうだな」って。

 

「悩み事」って、そこに他人が絡んできてしまう場合に「その人の持っている正義とか常識を前提」で矯正しようとしてくるでしょう?言われたことをなんでも受け入れるって全然誠意じゃないです。それは「面倒くさいことを避けようとしている」だけです。

 

相手と向き合う誠意って、


「その人にとっての“正義”って、自分にとっても“正義”なのか」


ってちゃんと吟味することだと思います。その上で、「ここは同意できるけど、そっちに関してはたぶん受け入れられないと思う」と伝えること。どっちかが「受け入れ過ぎる関係」ってどこかが必ず無理が生じて破たんするからです。

 

ちょっと話が長くなってしまったのですが、なんでこんなことを書いてきてしまったかというと、僕が「悩み」という問題と仕事として向き合うなかで

 

「“自分”を持っていないのに他人の話や意見を聴こうとし過ぎてしまっている人」

 

がめちゃくちゃ多いと感じているからなのです。責めてないですよ。これは日本的環境という文化とかの問題が絡むからどうしてもしょうがない部分だから。

 

僕は仕事でもプライベートでも、その人と向き合った時に自分がリラックスしているかどうかをすごく気にします。

 

自分が受け入れた方が良い「注意」って、その注意を聴きながらも自分が「まぁ、そうだよな」ってリラックスしながら聞いています。

 

でも、身体のどこかに緊張が走り「この人の言っていることは正しいんだけど、どっか何か受け入れたくないんだよね」とか、そういうのが走った時は“自分”を優先した方が良いと思います。「言っても通じない相手」に巡り合ってしまったら、ちゃんと心の中で「ファック・ユー」と言っておくこと。真面目に生きている自分が、誰かに傷つけられるいわれなんて絶対にないんだから。「うるせーバカ暇人」ってちゃんと思ってください。すごく口が悪いのですが、これはもうしょうがない(笑)

 

本当に思うのですが、その人の人生ってその人のものです。どう時代が進んでも、どう科学が進んでも、その人の人生を代わってあげることなんてできない。

 

「あなたのためを思って」という空気とか言葉を出してしまっている人って、まず「自分の人生」を間違いなく生きていないです。もしくは何かがあって「自分の人生」を一時的に見失ってしまっているときです。だから他人に口出しをしたがる。操作しちゃいけないところを操作したがる。

 

自分の人生を進める。そこで出てきた良いことも悪いことも、「まぁ、私ですからね」と思って受け止めていく。そしたら必ず人生において「自分」が自分に味方していきます。

 

許容範囲の大小は絶対にあるけど、苦しさも自分の財産なんだから、「絶対になんとかなる」とときに自分を励ましてあげてください。

 

「励まし」を他人に求めているときはちゃんとそれを自覚しておいて。「今は甘えたい」って。他人には助走をつけてもらったり、ヒントは与えられるけど、自分の車を動かしていくのはやっぱり「自分」だから。頑張って。応援してます。

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