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エヴァがこの先生き残るためには

エヴァ

それにつけても、おやつはエヴァ!

本日はの寄稿コラムをお送り致します!

 

今回はありがたいことに、「全体主義」について、ソウルメイト様が濃密なコラムを書いてくださいました!

 

私は全体主義に関する本を読んだこともなく、それが何なのか良く知らなかったので、今までその言葉を使ってませんでした。使えませんでした。

 

今回のコラムは保存版ですね^^v

 

それでは皆様も、お得感満載のソウルメイト様の思想を味わってくださいませ!

 

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『愛国と信仰の構造─②』~ソウルメイト様

 

グローバリズムや新自由主義が行き過ぎると、不可避的に人々の帰属対象としての共同体を破壊してしまうでしょう。帰属対象を失った個人は、バラバラの砂粒のようになって操作されやすくなるでしょう。そもそも普通の人間は砂粒のような状態に耐えられませんから、互いを結びつける何かを求めることになるのは、人間が宿す社会性からして必然というべきものだと思います。しかし、グローバリズムや新自由主義という強大で凶暴な力によって帰属すべき共同体は破壊されてしまっているわけですから、バラバラの個人が結集し、結束を求めるとき、しばしば、直接無媒介的に国家と直結しかねない危うさがあると言っていいと思います。グローバリズムや新自由主義による資本と市場の暴力によって生存を危うくされた人たちが生き延びるためには、国家を再生して企業や資本の横暴を制御しなくてならないわけですから、やむを得ないことではあるとも思いますが、それはまた、不幸にして全体主義を招来してしまうかもしれません。
しかし、そうだとして、ならば、そもそも全体主義は、何故悪いこととして忌避されなければならないのかについて答えを提出しておく必要があるでしょう。 

全体主義(イタリア語で totalitarismo,英語で(Totalitarianism)とは、

《個人の全ては全体に従属すべきとする思想または政治体制の1つ。この体制を採用する国家は、通常1つの個人や党派または階級によって支配され、その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるように努める。

政治学では権威主義体制の極端な形とされる。通常は単なる独裁や専制とは異なり、「全体の利益を個人の利益より優先する」だけではなく、個人の私生活なども積極的または強制的に全体に従属させる。全体主義の対義語は個人主義、権威主義の対義語は民主主義である》(Wikipediaより)
 
と定義するなら、ある特定の考え方、価値観、観念を唯一正しいものとして対立する考え方や価値観の存在や比較対照するための異論や反論の存在を許さないような思考態度、政治、司法、警察制度であると言えるでしょう。そして、 なぜ、全体主義が好ましくないかについて答えるにあたっては、真正な保守思想の核心的認識をよりどころとすることができると思います。
すでに引用したように中島岳志さんは、真正な、ほんものの保守思想であるなら、それは、人間の知性や知的能力およよびそれらの用い方には限界と制約があって、人間は、常に正しい答を見いだしたり、つねに正しい決定や選択をするとは 限らないと書いておられます。そして、それに同意するのであれば、いかなる個人、集団の考えることにも必ず誤謬や錯誤が含まれているので、絶えず自由な批判にさらし、また、現実を仔細に観察して現実的妥当性を検証することによって修正を施す必要があることにも同意されるに違いないと思います。 実は、そのような考え方は、欠陥を修正したリベラリズムの考え方でもある、というようなことを気鋭の政治学者であられる施光恒さんは、「リベラリズムの再生:可謬主義による政治理論」という著作の中で書いておられます。 
 

全体主義は、対立する主張や考え方、価値観の存在を許さないがゆえに、たとえ間違った結論や決定を下したとしても修正を施す機能を内部に欠きますから、危険きわまりないと言わざるを得ないのだ、と思います。つまり、暴走しやすいんですね。それこそ、異常増殖して歯止めの利かなくなった生物種─バッタやイナゴの大群が、いずれ早晩、集団死することが免れないのと同様、全体主義にも遠からず破局的な終末が口を開けて待っているので望ましいものではないんだ、ということは言っていいのだろうと思います。
また、蟻や蜂のように高度に集団生活を営む生物種の個体は、おそらく、その個体が属する集団から分離・独立した《自分》という意識をもたないでしょう。そして、そのことを別に苦に思ったりもしないでしょう。しかし、人間は、蟻や蜂と異なって高度な精神機能を有し、個体としての意識、つまり、自己意識というもの持ちます。通常、そのような個としての意識を持つことは、とくに苦しみやつらさとして認識されることはあまりないと思いますが、中にはその高度に発達した意識それ自体の重さにうめき、悩むというような人もいて、精神がバランスを欠いていたり、しなやかさを失っているような人の場合だと、往々にしてせっかく蟻やミツバチにはない高度な精神的自由がかえって当人を苦しめるものであったりすることもありうるでしょう。
深層心理学の創始者とされるジグムント・フロイトが活躍した頃の西欧人というのは、西欧の「近代的自我」を身につけることが強く要請され、それによってさまざまな心理的、精神的トラブルに悩まされる人が続出したそうです。フロイトは、そういう自我に起因するトラブルを自我に特有の意識の理性的な働きによって治癒に導こうとしたわけですが、あまり芳しい効果が発揮されない場合も少なくなかったようです。
フロイトの無意識についの考え方に賛同したカール・グスタフ・ユングは、当初、フロイトの追随者だったのですが、やがて、フロイトとたもとを分かち独自の心理学の体系を打ち立てます。ユングの心理学の体系のなかでも《全体性の回復》は際立って強調される考え方でもあります。
ユング派の深層心理学の考え方に従えば、意識はそもそも無意識の中から立ち現れてくるものです。無意識の広大で、それがすべてであるような世界から、あたかもロケットが地球の引力を振り切って宇宙空間に飛び出してくるように、自我は、自我を同化しようとする無意識の強大な力に打ち勝って自我それ自身を確立しなければなりません。自我、すなわち個我意識とは、かつて自らが属していた《子宮内的》な平穏、《ウロボロス的な自己完結状態》からの切断を意味するわけです
しかし、一旦、自我を確立した後は、一度は切り捨てたはずの《母胎》であるところの無意識と和解し再び関係を再構築することが人生の課題となる、というのがユングの主張でした。
もし、自我を持ったことが苦しみの原因だとして、ならば自我の確立を放棄してしまえば、無意識に飲み込まれて、ほとんど統合失調症のような病的な状態になってしまうかもしれませんし、共同体と未分化な意識レベルにある未開の部族民と同じようになることを意味するのかもしれません。しかし、かと言って無意識との関係修復を拒絶すれば、さまざまな神経症に苦しむことになりかねません。一旦、確立してしまった自我は、もはや無邪気ではいられず、自我を保持しつつ無意識と適切な関係を取り結ぶよりほかないとユングは考えたようです。それにそもそも自我もしくは、個我意識というものは、ほぼ不可避的に人間に宿るものであって、そうそう簡単になくしてしまえるものではありません。仏教の創始者である釈迦は、そのような個我意識こそが苦しみの原因であるとして、それを滅却することが苦しみから逃れる唯一の方法だ、と説いたわけですが、それは容易に成し遂げられることではありませんし、そもそもそれがあらゆる人に可能なことであるかどうかも自明ではありません。どんな人にも宿る個我意識というものの働きを無くすことは、容易ではないし、第一、それがよいことであるかどうかについても疑念は残ると思います。ですが、個我意識というものの《質的転換》を図ることは、かならずしも不可能ではないとも思います。
ユング派の深層心理学者である老松克博さんは次のように書いておられます。

──心全体の広さから言えば、意識が占める割合は非常に小さく、心のほとんどは無意識といってよく、意識は氷山の一角に過ぎない、そして、意識はふつう、自我を中心として一つにまとまっている。ところが、古典なタイプの多重人格に見られるように、自我を中心としない意識もないではない。通常の意識とは違う意識も存在しうる。自我はコンプレックス(心的複合体)の一種で、コンプレックスとは、なんらかの元型的な核を中心に、特定のさまざまなイメージや観念が寄り集まり、一つの塊として機能するようになったものを指す。自我は「私」を核とするコンプレックスで、数あるコンプレックスのなかでも最強、最大で、その分、付随する意識も特別に広く明るい。あるコンプレックスが自我に匹敵するほどの多量のエネルギーを擁していれば、そのコンプレックスに伴う意識が、一時的に通常の意識にとってかわることがある。これが多重人格と呼ばれる現象である。

セルフとは、意識、個人的無意識、集合的無意識を合わせた心全体の中心で意識領域のみを支配する意識と異なり、セルフは隠れた絶対の中心として、心の動き全体に大きな影響を及ぼしている。その絶対性、超越性ゆえに、私たちは、セルフを、神や仏のイメージに投影して経験することが多い。心のなかには神や仏に相当するような部分があって、超個人的な秩序、癒し、救済を自我にもたらす。……自我はもともと、セルフの意向をこの世に実現するために派遣された代理人であり、そのために分化させられたセルフの似姿である。現実を扱う専門家としての自我がいなければ、究極の真実であるセルフといえども、みずからをこの世に実現することはできない──
自我もしくは、個我意識というものは、厄介な性質も帯びてはいますが、現実世界に自己を実現させるために不可欠な働きをするもの、と考えれば、個我意識を欠いてしまえば、曖昧模糊とした、とりとめのないものしか残らないでしょう。現実世界に己を顕すためには個我意識という《病》を病まないことには、何も始まらないというパラドキシカルな問題が人間という存在にはもれなく横たわっているように思います。
老松さんは、人間の精神的、心理的な成長と発達について、「個性化」という言葉を用いてつぎのようにも書いておられます。
──ユングは終わることのない心の発達のプロセスを個性化と名付けた。個性化とは、要するに、個になっていくことである。では、「個になる」とはどういうことか。……この場合の「個」は、要するに、「最小の単位」を意味している。問題は何をもって最小とするかである。たんなる断片は単位ではない。単位とは、それ以上分割すると断片になってしまうようなものである。さまざまな要素が必要最小限すべて揃って一組となった塊。それが「単位」であり、「個」と呼ぶにふさわしい。「個」を意味するindividualは、まさにdivideできないもの、それ以上分割できないものを指す。誰もが持っている心の諸要素、その一揃いが、「個」という単位なのである。揃っている以上、「個」は「全体」に等しい。一揃いの諸要素は一つの全体を構成しうるからである。人はそのような単位を目指さなければならない。個性化のプロセスとは、全体の調和へと向かうプロセスである。

個性化のプロセスにおいて要求されるのは、意識を拡大して、乖離した無意識との溝を埋めていく作業である。これは、通常とは異なる超個人的(トランスパーソナル)な次元への意識の拡大、宗教的な意味での意識の拡大をも含む。……意識と無意識との対立に和解がもたらされるとき、自我はみずからの存在のほんとうの「意味」に、すなわち自己(セルフ)に開かれるだろう。自己とは、私という心の全体にほかならないからである。……自我が神秘的融即を断ち、集合的な価値観から適当な距離をとれるときにだけ、セルフ(のイメージ)は姿を現す。具体的なイメージや現象に身をやつして意識の世界にやってきて、はっきりと自我に経験されるのである。超越性を備えたセルフがこの世に実現される瞬間(自己実現の瞬間)と言ってよい。……自我がアクティブな態度を身につけると、アニマやアニムスは、導き手としての肯定的側面を見せるようになる。セルフへの道はこれによって開く。自身の内部から立ち現れてくる圧倒的な意味と価値、それがセルフである。そして、そのような意味と価値に信を置き、それらをこの世のものとすべく生きていくことこそが、個性化なのである──(以上、老松克博著『『アクティブ・イマジネーション 理論と実践』より)。
《誰もが持っている心の諸要素、その一揃いが、「個」という単位なのである。揃っている以上、「個」は「全体」に等しい》という老松さんの主張は、以前のブログで引用させていただいた村上和雄さんが、ご著作「サムシング・グレート」の中でお書きになられた──細胞が集まって、より高度な秩序をもつ器官や臓器を形成する場合
細胞は、臓器に包み込まれながら、臓器の形成やはたらきに協同的にふるまっている。しかし、細胞は、臓器に隷属しているのではなく、それ自身個性があり、臓器の中で自主的、選択的に働いている。逆に臓器も、細胞自身の活動のため、協同して働いている。このように、細胞(個)は単なる個ではなく、全体に包み込まれており、臓器(全体)も単なる全体ではなく、個の中にも生きるというように、個と全体の二つが一つになり、協同的に生きるというのだ。(中略)これは、『部分』である細胞が『全体』としての性質を備えていることを意味する。これらは、細胞や臓器の段階だけでなく、さらに臓器と個人や個人と個人、さらには個人と社会や地球との関係にもあてはまる。──という記述と見事に符合すると思います。
個人と社会や国家のようなものとの関係を個々の細胞と心臓や肝臓などの器官あるいは生物個体の全身とのアナロジーで語るとするなら、細胞は、半ば独立しつつも細胞が属する器官や全身との調和と共同関係に細胞自身の生存の維持と器官や全身の健康も相互に依存し合っている、ということは、銘記されるべきでしょう。器官や身体全体を作り上げているのが個々の細胞である以上、個々の細胞の健康や生存を無視して心臓や肝臓などの器官や生物個体の生存が成り立つはずがありません。それは、個人と社会や国家のようなものとの関係にそっくりそのまま当てはまるとわたしは思います。国家や社会を構成する個人が存在しなければ、国家や社会などというものが存在するはずがないでしょう。
また、スタンフォード大学の心理学者カール・プリブラムは、記憶は脳のどこかに局在するのではなく、ホログラムのように脳全体にわたって分散し、かつ全体性を分割するのではなく、全体性を保ったまま貯蔵しているのではないか、と考えたそうです。

彼が提唱する理論によれば、記憶やイメージは、ホログラムとほとんど同じ方式で、私たちの脳に記録されていて、内容の異なる多くのホログラムを重ね合わせることができるように、私たちの脳の内側でも、無限のイメージが積み重なっているかもしれない、のだそうですが、ホログラムという撮影方法というか画像記録は、そういうことが可能なのだそうです。
ホログラムによって撮影された記録を映像として再現するとフルカラーの実物そっくりの三次元立体像が得られるのだそうですが、ホログラムの驚くべき性質は、ホログラムによって撮影された記録媒体を分割しても全体像を再現できることでしょう。つまり、ホログラムの記録媒体は部分が全体についての情報を有しているわけです。
人間を含むあらゆる多細胞生物の一つひとつの細胞には、その生物個体全体についての情報がゲノムという記録媒体にもれなく備わっています。つまり、少なくとも遺伝情報に関する限り、個は、即、全体と言っていいでしょう。しかし、皮膚の細胞や肝臓の細胞、目や視神経の細胞は、一揃いの遺伝情報の中から、自分がなろうとするものに必要な遺伝情報を発現し、それになっていきます。それは半ば自発的であり、全体の中で自分が占めるべき位置を知っているかのようになされます。あたかも社会や共同体に帰属し、それらを構成する個人が、社会や共同体の必要を満たすものに自発的に《なっていくように》。
もし、カール・プリブラムが主張するように人間の記憶が脳にホログラムのように蓄えられているのだとして、それが、生物のあらゆる生命現象─発生のプロセスのようなものにも言えることなのだとすれば、それは、仏教の華厳思想で語られる「一即多、多即一」という言葉を思わせますし、「一滴の雫に、全宇宙が宿る」という表現がありますように、「一つの存在の中に、全宇宙全ての存在があり、全宇宙全ての存在の中に、一つの存在がある」というような表現を思い起こさせるものであると思います。
ユング派の深層心理学者が言うように、《個性化のプロセスにおいて》は、《意識を拡大して、乖離した無意識との溝を埋めていく作業》が必要とされるのはなぜかというと、人間の意識というものは本来的に偏っているし、部分的だからでしょう。そのことが苦痛として意識されることがしばしばあって、その有効な解決策は、失われた全体性を回復することだ、ということになるわけです。意識は、全体性の中でしかるべき位置を占めない限り、苦痛を感じるようにできていると言ってもいいと思います。
上記のユング派の深層心理学者が書いた文章を以前書いたブログでも引用させていただいた気鋭の論客、中野剛志さんがご自身のご著作「真説・企業論」の中でお書きになられた次の文章と読み比べてみるのも示唆に富むことなのではないかと思います。中野さんは次のように書いておられました。
───共同体的な集団は、イノベーターとなる「個」を排除するものでは必ずしもないということでした。もっと言えば、イノベーターとなる「個」を育て、そして評価するためには、限定的で長期的で濃密な人間関係が必要だということでした。つまり、共同体的な集団でなければ、イノベーターとしての「個」を生み出し、活用することができないのです。

それは繰り返しになりますが、イノベーションの源泉となる「暗黙知」──「ノウハウ」と「思い」──というものを育て、評価するためには、「個」と長く付き合わなければならないからなのです。

同じ職場で長く働く同僚とは、ある仲間意識によって結ばれ、家族ほどではないにせよ、かなり共同体的な関係にあります。しかし、そうであるからこそ、その同僚の性格や能力がよく分かる。そいつの食べ物の好き嫌いからネクタイの趣味まで、分かるようになる。つまり、場所や経験を長く共有したからこそ、その人の個性が分かるのです。そうだとすると、「個」は「共同体的な集団」とは対立しません。むしろ逆に、「共同体的な集団」の中から、「個」が育ち、「個」が発見され、そして評価されるのです。

いやいや、そうは言っても、「個」を排除するような「共同体的な集団」というものもあるではないか。そう思われたかもしれません。確かに、「個」を排除し、圧殺するような企業はあります。しかし、そのような企業は、本当の意味で「共同体的」と言えるのでしょうか。

共同体とは、家族や故郷に典型を見るように、それに属する個人の愛着の対象であり、アイデンティティの一部です。その集団に属することに愛着を覚えないようであれば、その集団は共同体あるいは共同体的とは言えません。例えば、夫が妻子に暴力を振るうようでは、家庭は崩壊して、共同体ではなくなってしまうのです。

さて、自分の個性を排除し、圧殺するような社員は、その企業に愛着をもつでしょうか。もちろん、もちません。愛着や帰属意識をもてないような企業は、共同体的とは言えないのです。

共同体的な企業とは、社員が勤務することで愛着や一体感を覚えるような企業のことです、なぜ愛着を覚えるのかと言えば、それは、その企業の上司や同僚や部下が、自分の個性を認知してくれるからです。社員を「個」として認めるような深い人間関係のある企業こそが、「共同体的な集団」なのです。

だから、「個」と「共同体的な集団」は対立しません。それどころか、両者は密接不可分なのです。───
中野さんが企業とそれに属する個人について述べられたことは、あらゆる組織や共同体、社会や国家のようなものについても言えることだとわたしは思います。─「個」と「共同体的な集団」は対立しません。それどころか、両者は密接不可分なのです。─だからこそ、帰属すべき共同体を失った個人は苦痛を覚え、痛みを感じるんでしょうね。そして、どうにかして再び共同体に帰属したいと思うわけで、それは、つまり、《失われた全体性の回復》に向けた欲求、と言ってもいいと思います。
《国民国家》というくらいですから、このことは、個人と国家の関係にも当てはまることでしょう。個人が個人として生の営みを充実し、幸福に生きていくためには、国家というものは大変に有用で役立つものです。そもそも、国家というものは、国民の支持と協力がなければ成り立ち難いものでしょう。個人は国家に従属し、国家のためにひたすら奉仕せよ、などといった政治体制は、一時的には存在しえても、長続きするものではないでしょう。そういう極端な国家主義に基づく国家ですら、その政治体制の維持のために国民の中の有力な者たち─軍人や警察官、官僚などに特別手厚い恩恵を施して、政治体制に対する忠誠を誓わせようとしますから、国家がやらずぶったくりで、国民から奉仕と犠牲のみを求めようとしたら、普通は、そういう政治体制は国民の支持を失い崩壊せざるを得ないと思います。
かつての大日本帝国の臣民は、いかなる見返りも求めず、国家に対して奉仕と犠牲を惜しみませんでした。しかし、それをいいことに、国家を牛耳った軍人たちやその協力者であった官僚たちは、国民に奉仕と犠牲を求めるのみで恩恵を施すことにはきわめて無関心で消極的であったと思います。むしろ、自分一個の出世や栄達、昇進のために国民の命を平然と犠牲にした連中がいくらでもいたことを直視すべきではないかと思います。現代の北朝鮮とかつての大日本帝国とは双生児のようによく似ているとわたしは思います。
さて、古来、失われたた全体性を回復する試みのひとつが禅やヨガなどの瞑想修行だったとも考えられます。熟達した禅やヨガのマスターは、そうでない人よりも際立って心の平安、平静を保つことが知られていますが、それを心理学的に取り入れようとするものにトランスパーソナル心理学(超個心理学)というものがあります。老松さんのお言葉を拝借するなら、《通常とは異なる超個人的(トランスパーソナル)な次元への意識の拡大、宗教的な意味での意識の拡大をも含む》を目指す心理学の体系と言っていいと思います。
そのトランスパーソナル心理学の代表的論客と称せられたケン・ウィルバーは、個を超えてトランスパーソナルな次元に達したと誤解されるものに、無意識への退行がある、と警告しました。個として十分に成長と発達を遂げることなしに、いわば、個を確立するこに失敗、挫折して無意識の領域に退行してしまう人がいて、それと個を保ちつつ、個を超えることとを混同してはならいと主張しました。
無意識の領域の深いところには圧倒的なパワーを持ったものが潜んでおり、それと自我が同一化することをユング派の心理学では《魂のインフレーション》と呼びますが、ようするに無意識に自我が乗っ取られた状態を言うわけで、そのような人は、あたかも誇大妄想患者がそうであるように、際限のない全能感や全知の感覚を持つに至るようです。全体主義の独裁的なリーダーというのは、例外なく強烈なカリスマ性を持ち、全知全能ででもあるかのように振る舞いますが、もしかすると彼らの多くが無意識に自我を乗っ取られた《魂のインフレーション》を病んだ人たちなのかもしれません。そして、そのようなリーダーにヤラれてしまう追随者も出てくるんでしょうね。

 

そのような人にとって、自己の個体性や個別性を放棄して、より大きなものと合一もしくは融合することこそが《孤独という病》からの解放を意味することは、理解できないことではないと思います。ただし、それは、あるタイプの人にとっては、苦しみからの解放を意味するでしょうが、別のタイプな人にとってはかならずしもそうでないことを中島さんは、一世を風靡したアニメ「エヴァンゲリオン」を引き合いに出して次のように書いておられます。
───1997年に公開された「エヴァンゲリオン」の劇場版では、「人類補完計画」というものの内容が明らかにされていきます。それは、自己と他者がすべてひとつのスープなようなものに還元され自己と他者の区別がなくなる何かの世界が、次の人間の段階として神秘的に設定される。だから、みんなが歓喜の中で自分が消えていくという瞬間が、映画の最後のほうに描かれるわけです。アダルト・チルドレンとしてそこに登場する14歳のシンジ君は、そのスープの中に溶け込んでいかないという選択をとります。彼は次のようなことを言われます。「だって、あなたが毎日苦しんでいる他者の恐怖から、これで逃れられるんだよ。みんな本当の人類へと昇華するんだ。みんながひとつになるという世界の中で、本当に自分を生きる。他者と自分の区別がつかずに」

そのときに、シンジ君は、「でも、これは違う」「僕がいないもの」「誰もいないのと同じだもの」と言うのですね。そして、彼は海岸に打ちつけられて、また苦しみの世界の中で、他者に拒絶される世界の中で生きてゆかざるを得ない。そういうエンディングなのです。この他者と自己がなくなるという究極のエクスタシーが持っている危うさこそが、昭和のある種の全体主義と結びついた世界観だったと思うのです。その危うさは、秋葉原事件の加藤智大やネット右翼が象徴するように、現代においてなおリアリティを持ち続けているように思います。────
全体に個または個人が吸収されて消え失せてしまうこと、つまり個性の埋没をシンジ君は、「でも、これは違う」「僕がいないもの」「誰もいないのと同じだもの」と言って拒否したこ
は特筆にあたいすると思います。
行き過ぎた個人主義を批判する論者の中には際立った個性をお持ちになられる方が少なくありません。佐伯啓思さんや西部 邁(にしべ すすむ)さんは言うに及ばず、中野剛志さんや藤井聡さんや佐藤健志さんなんかも個性が際立った、キャラの立つ方たちですよね?
でも、中野さんにしろ佐藤さんにしろ藤井さんにしろ個人主義の行き過ぎは批判するとしても、個性なんかなくしてしまえとは主張なさいませんよね?

全体主義の指導者たちはみな際立った個性の持ち主ですが、全体主義っていうのは、強烈なカリスマを持った独裁者が自分以外の者たちから個性を剥奪して平均化してしまうことによって独裁者の支配を容易にする手段だと言ってもいいんじゃないでしょうか?中野さんや佐藤さん、藤井さんからはそういう下心をわたしは感じませんし、誰かを犠牲にして自分の野望や野心を遂げたい、というようなきな臭ささも微塵も感じませんが、個人というものを抹殺して国家という全体の単なる部品にしてしまうような思想を持っておられないからだと思います。
全体主義は、ある種の人たちにとっては、救いであり、福音でもあるところがこの問題を複雑かつ容易に合理的解決を許さないようなものとしているんだと思います。全体主義は望ましいものではないといくら理屈で言って聞かせようと、功を奏さない理由がまさにそこにあるのでしょう。あるタイプの人たちが、だれに強いられたわけでもなく、全体主義のようなものを嬉々として受け入れるということは、無視すべきでも軽視すべきでもないと思います。
全体主義は、破壊的カルト宗教のようなものとよく似ていると言っていいと思います。「宗教それ自体が全体主義なんじゃないか?」と思われる方も中にはおられるかもしれませんが、先に全体主義について《全体主義とは、個人の全ては全体に従属すべきとする思想または政治体制の1つである。…公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるように努める。政治学では権威主義体制の極端な形とされる。通常は単なる独裁や専制とは異なり、「全体の利益を個人の利益より優先する」だけではなく、個人の私生活なども積極的または強制的に全体に従属させる》と定義したのを思い出してください。普通、社会性を豊かに備え、社会と深刻な対立に陥ることのない穏健で良識的な宗教の場合、ことその宗教の教理の解釈や信者にたいする宗教的事項の指導や教育については、“権威主義的”であるかもしれませんが、あくまでも、当該宗教がおしいただく教理や教説についてはそうであっても、個人の私的生活のあらゆる面に渡って干渉し介入し、個人の生のあらゆる局面を支配しようとはしないでしょう。そこが、破壊的”カルト宗教とそうでない宗教の違いであり、また、全体主義という政治体制とそうでないものの違いではないかと思います。社会心理学者の西田公昭さんは、「マインド・コントロールとは何か」という著作の中で、破壊的カルト宗教のようなものは、信者の心を操作し、乗っとるために、その人固有の信念体系、価値観を攻撃して破壊もしくは、機能を停止させ、破壊的カルトが望むような信念体系、価値観を植え付けることにより、信者を支配しようとするのだ、と書いておられますが、全体主義のもとで個人に起きることというのは、まさにそういうことなのだろうと思います。
ところで、全体主義というものは、人々を統治する手法とかしくみですから、どんなものとでも結合は可能でしょう。前述のように宗教のようなものとだって結合しますし、新自由主義のような経済思想とだって容易に結合するでしょう。南米のチリやアルゼンチンにおける独裁政権による全体主義とミルトン・フリードマンを始祖とする新自由主義とが結合したことによって南米諸国には血なまぐさい粛清の嵐が吹き荒れたことをナオミ・クラインは「ショック・ドクトリン」という著作の中でかなり詳細に記述していますが、「新」と付こうが付くまいが「自由」と公言するものでさえ、全体主義と結合しえたことを軽視すべきではないと思います。また、南米の独裁政権が新自由主義にもとづく経済政策を実施する上で排除しようとしたのが自営業者や職業団体、組合などのような国家と個人の中にあって社会や個人の安定装置としての働きをしていたものであったことは、特筆に値すると思います。
余談になりますが、ナオミ・クラインは、上記の「ショック・ドクトリン」という著作の数ページを割いて、洗脳について詳述していますが、破壊的カルト宗教が自らの信者に施すものこそ、洗脳という人の意識を意図的にコントロールする技術をより洗練化させたマインド・コントロールという手法であることを思うと、新自由主義を批判する同書でなぜ、洗脳のことを詳しく述べているのか、意味深いものを感じます。
ある特定の価値観、思考・論理体系を唯一絶対に正しいと思いなすことは、きわめて危険なことで、人間は固有の限界があるがゆえに、そのような絶対の正しさを自らのものとすることはできない、という保守主義のエッセンスは、何度でも繰り返す価値があると思います。
さて、中には全体主義そのものを忌避するのではなく、特定の政治思想と結合した、たとえば、ソ連共産主義や北朝鮮みたいな全体主義は絶対ダメだけれど、戦前の日本のような皇国思想による全体主義だったら、オーケーだ、という人は存在しうるでしょうし、現に存在していると思います。あるいは、経世済民という思想を実現しようとする全体主義というものがあるとするなら、そういう全体主義ならオーケーだ、と言ってしまいかねない危うさもあるのだろうと思います。
しかし、全体主義というのは《全体》と名付けられてはいますが、その実、あらゆる全体主義は常に一握りの少数者の専制もしくは、独裁にほかならないということは銘記せられるべきではないかと思います。そして、自由な批判にさらされることのない絶対権力は、絶対に腐敗するのは必然だろうとも思います。繰り返しになりますが、どんなに素晴らしい考え方だと思えたとしても前述した保守思想の根幹をなす人間観、すなわち、《いかなる人間も完全無欠ではないし、けっして間違いを犯さないというわけにはいかない》ということは絶えず思い出し、立ち戻る必要があると思います。あのヒトラーだって異次元の公的支出を断行してアウトバーンの建設なんかをどんどんやって沈滞したドイツ経済を瞬く間に生き返らせましたが、それで終わりじゃありませんでしたからね。国家という強大で強力なものが直接、無媒介的に個人の内面にまで
し寄せて来るのが全体主義というものの本質だ、ということは無視すべきではないでしょう。小説家のジョージ・オーウェルが書いた「動物農場」や「1984年」は、ソ連におけるスターリン独裁を念頭において書かれものだとされていますが、ああいうものを望ましいものではないと考える人のほうが多数であることを祈りたくなりますな。
全体主義を好み嗜好する人たちが存在することはまぎれもない事実ですから、それはそれとして受け入れるしかないと思います。おそらく、全体主義を好む人たちというのは、彼らの内的必然性に促されてそうしているのであって、内的必然性が満足されるか解消されない限り全体主義を嗜好することは止まないだろうと思います。それについて他人がとやかく言ったところでどうにかなるような問題ではないとわたしは思います。
しかし、全体主義というものの困ったところは、全体主義によって支配されることを好む人たちはまた、全体主義によって他者をも支配したいとの欲求を持つことだろうと思います。
  

全体主義のようなものに支配されることを好む人たちにとっての快感は、そうでない人たちにとって苦痛でもあるということを全体主義を好むような人たちは往々にして理解しようとしないでしょう。
全体主義を本質的によいものだと思う人たちが存在する以上、全体主義を好まない人たちは、全体主義が社会や政治などを覆い尽くすことがないように自分が大切だと思うものを保守する努力を怠るべきではないでしょう。その努力を怠るなら、いずれ全体主義があらゆる局面ではびこってしまい、もはや手のつけようのない事態の到来を許してしまうかもしれません。
そうならないためにも、たとえば高木克俊さんの「超個人的美学」というブログ集に収録された「安倍政権とファシズムの初期症候」()と題するブログをお読みになっていただきたいと思います。「ファシズムの初期段階における危険な兆候」でググると高木さんのブログがヒットすると思いますよ。

さて、もし、そういう事態を望まないのであれば、日本人がかつて経験した過去の事例から多くを学ぶ必要があるように思います。機会がありましたら、「愛国と信仰の構造」、ぜひご一読のほどをお願いして拙文の終わりとしたいと思います。

 

(了)

 

   

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時計仕掛けのエヴァ

今年、国内主要レースに登場したレースクイーンユニットの中から、
ファン投票で人気No.1レースクイーンコスチュームを決定する

日本レースクイーン大賞2017コスチューム部門
本日8/10よりWEB投票スタート

 

元々エヴァレーシングRQコスチュームと言えば

作中に登場するキャラクターをモチーフにしているため

5人5種のそれぞれ違うデザインという特徴があります

 

さらに

 

今年のエヴァRQコスチュームはもっと上をいくために
他のチームではない程のこだわりぬき

力を注いで お金も・・・(小声)

RQコスチュームを製作いたしました

エヴァレーシングRQ2017のコスチュームの魅力を

どうか語らせてください

 

ポイント其の壱  魅惑のフロントジッパー

今までのエヴァRQコスとの違いを出せる斬新なデザインを採用しました
ジャンパースカートのように上下つながっていますが
やっぱり!ウエストおヘソは見せるのがこだわり

そして、最大のポイントは
どこまでも開いちゃいそうな魅惑のフロントジッパー

ポイント其の弐 スワロフスキー社製ラインストーン を使用
スワロフスキーとは、オーストリアの高級ガラス製品を扱う会社のことで
独自の製法と加工法によるカッティング技術加工を施しているので、

スワロフスキー社のラインストーンは輝きが違うんです

背中の番号の部分にブラックラインストーンを

そして首元のひし形と三角部分に

レッド系またはブルー系ラインストーンを散りばめてます

写真では分かりにくいのですが、

太陽光やスタジオライトにあたるとキラリと綺麗

ポイント其の参 靴だって完全オーダーメイド
オシャレは足元から

ブーツカバーは作っているけど
靴を全てオーダーメイドで作っているチームは意外と少ないんです。
今のRQ界ではブーツが主流となっていますが
流行を取り入れたレースアップシューズを型からデザインしました

ポイント其の四 カラーストッキングもオーダーメイド!!
EVA Racingのロゴが入ったカラーストッキング
もちろん5人それぞれ色が違うので

実はヌーディ―で良い感じの色味を調整するのに苦労しました

其の五 ネックレスもオーダーメイド!
それぞれのRQのキャラクターの番号になっている
世界に1つだけの1点モノのネックレスを作っちゃいました

 

其の六 なんと!生地からオーダーメイド!!
今までよりもキラキラ度がさらに増して存在感UP
今回の衣装を作るために生地見本から選んだ生地だけでは
キャラクターのイメージに近い色がないものは

このコスのための生地をオリジナルで作っていただきました~γ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ

このこだわりの衣装を
レースクイーンたちが大切に思い着こなしてくれて

シンクロ率を高めてくれること

 

そしてファンの皆さまがエヴァレーシングRQをいいな~

と思ってくれることで

 

苦労してコスチュームを製作して良かったと思えます
さらに欲を言えば・・・
今年こそ

エヴァンゲリオンレーシングにコスチューム大賞欲しいです
投票にご協力をお願いいたしますm(_ _ )m
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【投票方法】

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この要領で投票おねがいします

 

 

 

ナカノ(・ω・)b

 

 

 

 

告知

9月17日(日) エヴァレーシングRQ2017 撮影会開催決定

詳細については後日エヴァレーシング公式HPに掲載いたします

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